2015/04/28 16:00

このコーナーでは「夏未夕漆綾第二席塗職」浅 田  正が日頃気付いた事や思う事を記事にしています。

どうぞ、宜しく・・・。



輪島塗職人の出身地を年代ごとに見ていくなら、そこに年代によって地理的拡大が存在する様相が見えて来る。

そしてこうした職人の出身地の地理的拡大が日本全国規模になった時、輪島塗の伝統様式は従来のシステムを完全に失う事になるが、これは言語の拡大、グローバルとローカルの関係に良く似ている。


英語は元々ヨーロッパの一部で使われる言語だったが、それを使う国家の力関系で拡大し、アメリカが経済的に世界基軸通貨国家となった時から世界のスタンダードとなり、あらゆる民族の基本言語を駆逐し始め、或いはそのローカル言語の中に入り込み、やがてはその英語化したローカル言語が英語に逆流して、基本的な英語と言うものが見えなくなって行く。


スタンダードとは実にあらゆるものを取り込んで本来の形を薄くする、または失う事を意味しているのであり、輪島塗職人の出身地に措ける地理的拡大とスライドして輪島塗は衰退するが、これは基本的に経済に措ける拡大と崩壊の連鎖もまた同じ事である。

輪島市の市街地は輪島川を挟んで「河井町」と「鳳至町」(ふげしまち)に分かれていて、その気質が若干異なる。

河井町はどちらかと言えば外に対する商業地域の意味合いから冷たい、或いは少し洗練された感じを持ち、鳳至町は地域商業地と職人の町の雰囲気を持っていた。


つまりここでは河井町は販売、鳳至町は製造のような漠然とした違いが存在していたのである。

それゆえ例えば詐欺師が同郷を偽って「輪島中学」などと言おうものなら、一発で「こいつは輪島の者では無いな」と判明したのであり、輪島には河井町に「松綾中学」(しょうりょう・中学校)、鳳至町には「上の台中学」(うわのだい・中学校)の2校が存在し、「輪島中学」と言うものは無かった。


そして輪島塗職人は基本的にその当初はこの市街地である「河井町」と「鳳至町」の出身者のみで構成され、ここでは全ての職人とそれを束ねる親方達が相互に家制度上の情報を共有していたのであり、言わば端末職人の1人までその素性は明白になっていたが、これが交通機関の発達と共に、周辺の郊外の町へと拡大していく。


交通機関としての蒸気機関車、自転車などの普及は、河井町と鳳至町の中でしか存在していなかった輪島塗職人の地理的広がりをその周辺に拡大したのであり、やがて更に自動車の普及によって、或いは日本全体の経済的発展によってより縮小した時間的地理条件と、バブル経済崩壊によって訪れる従来価値観の喪失は、それまで重きを持って見られなかった職人の姿に光を当てる事になり、ここに輪島塗職人の世界は日本全国区となった。


またこうした職人のグローバル化は、それまで漆を塗るのは男性の仕事、「研ぎ」と言って塗った漆を研磨する作業は女性の仕事と言うような職業区分すらも拡大し、女性の塗り職人も現出させ、ここに完全な拡大状況を発生させるが、これに比例して輪島塗の従来の概念は少しずつ崩壊し、変遷していく。

英語で言えば基本的な英語が姿を失い、変遷した英語が主流となっていくのである。

ちなみに輪島塗職人にはその職人が職人である事の証明書簡は存在していなかった。

河井町と鳳至町が中心の世界では書簡による証明書より、それが口伝で知らされる方が効果は大きかった訳である。

ゆえ、職人が職人として認められるのは、親方が「年季明け」と言って、一人前になった事をしるす宴会を開き、ここに関係者を招いて「親子固めの杯」を交わす儀式を行い、それを来賓が承認する事で足りたのであり、これはどちらかと言えば古い時代の結婚式や葬式の概念に近いものだった。


この年季明け儀式を文書で担保する、所謂職人に職人である事の証明書を輪島漆器商業組合が発行するようになるのは、昭和40年代になってからの事だった。

だからこれ以前に職人になった者は文書的証明書を持っていない。

その人間が職人である事は輪島の職人、親方の全てが担保していたのであり、逆に言えば文書の証明が必要になってきた背景には、それまでの地域の人間関係が希薄になりつつ有った証明だったのかも知れない・・・。



文責  浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)