2017/06/10 16:19

この世界に完全な直線も曲線も存在し得ない。

我々が一見直線と認識しているものも、厳密には曲線が蛇行していて、分子的観念からすると、それが遠くに在るからほぼ直線に見えているに過ぎない。

それゆえこの世界で最も作り易くて難しいのが直線や円などの秩序線であり、また人間の視覚はその眼球の持つ構造的視覚的特性を脳が補正して平面性を認知している事から、基本的には中心精度が高く周辺精度は低い状態になっている。

端末に入ってくる視覚、或いは関心の無い視覚対象などは、場合によっては色すら付いていないかも知れない。

この事から例えば四角い箱を作る場合、それを定規で測かり、しかも高い平面性を持つ砥石などで研磨して製作すると、確かにその箱は完全な平面性を持つ構造体に見えるが、どこかで漠然とした不安定、脆さ、または危険性を感じてしまう。

これは何故か、丁度完全な白色が自然界に存在しない事と同じで、それが自然界には存在しない事を人間が非意識的に認識している為に、完全な平面性を確保しようとすればする程、それが自然の構造、すなわち自分からの乖離になってしまうからである。

そしてこうした自然からの乖離性と自然との分岐点が、エンターティーメントと芸術の分岐点になるが、この分岐点は相互に入り組んでいて、非日常性と言う視点に重点が置かれる時代には芸術が壊れ易い。

近年の世界的なパーソナルコンピュターの普及は、あらゆる意味で人間のエンターティーメント性を増長させ、バーチャルが大半を占める暮らしの中では、定規で引いたように分子レベルに近い直線が蔓延するが、これが持つ社会的傾向が「不安定」と言う事になる。

またこうした経緯から自然の部分でもある当代の芸術は崩壊、或いは衰退せざるを得ないが、これは一つの秩序が終わり次の秩序が現れる証でも有る。

松の葉は見ていると綺麗な直線に見えるが、近くで見るとその一本々々はかなり曲がっている。

人間の視覚は意識補正機能が有り、「そう思えばそう見える」ものであり、しかもかなりアバウトな面と高い精度が瞬間ごとに切り替わり、これが記憶に繋がって意識が為されている。

私が若い頃出会った高齢の「沈金師」(漆器の表面に細いノミで絵柄を彫って、そこに金を入れて装飾する技法を持つ人)は150cmの漆板に何本もの並行線を掘るとき、3日間穀物を摂取せず汁ものだけで過ごし、そしてフリーハンドでこの作業に挑んでいた。

彼曰く、「定規で引いた直線は直線には見えない・・・」

「フリーハンドで直線を引く時は弱く息を吐きながら掘ると、綺麗に真っ直ぐな線になる」

私も箱や平面の板を作るとき、それを定規に当てたり平面性の高い砥石で研磨する事はしない。

球体である地球の表面に並行になるよう、そんなイメージで箱を作り、板を塗るようにしている。


文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)