2017/06/14 08:39

私が漆の世界に弟子入りしたのは昭和53年(1978年)の事だったが、当時輪島塗業界は飛ぶ鳥を落とす勢いで、弟子の募集なども沢山有って、そこでどこの漆器店(塗師屋)へ入門するか迷うほどだった。

 つまり当時の漆器業界は売り手市場だったのだが、私を含め多くの者が職人の道を目指した動機は「儲かるから」或いは、「食べていけるから」と言うものであり、そこに漆の崇高さなどを求めていた者などいなかった。

事実私がどうして修行させて頂いた親方の門を叩いたかと言えば、面接で「カツ丼」を食べさせてくれたからだった。

 

そして当時の輪島塗の世界はみんな怒っていたが、それも良い事で怒っていて、弟子の私は恐かったがとても有り難い気持ちにもさせられたものだ。

親方の使いで蒔絵師の所へ仕上がった物を受け取りに行った時、その高齢の日展作家は上がって茶でも飲んで行けと言ってくれたが、急いでいた私はそれを遠慮した。

 

すると「何だと、俺の茶が飲めんと言うのか・・・・」、大作家がそうポツリと言うのである。

慌てて前言を撤回し、お茶を頂く事になった私にその作家は「若い者が遠慮していてはいかん」と言って、笑って菓子とお茶を出してくれた。

 

また輪島塗には職と言う分業区分があるが、この中の一つ「ろいろ」と言う漆器表面に綺麗な艶を出させる仕事をしている親方の所へ行った時も、品物を受け取って帰ろうとする私に、10本以上も有るひとふさのバナナを持って来て、「これを食え」と言うのだが、やはり遠慮してしまった私にその親方は「何だと家のバナナが食えんってか・・・」と言う事になり、私は品物とバナナを抱えて帰途に付いたものだった。

 

あれから35年の月日が流れ、そして私の周囲の人々は随分洗練されたものとなり、今ではみんなが優しくて上品で有り、尚且つ漆器を語れば「良い仕事」、「永遠に勉強」と言う具合で、漆器や漆が好きでなければこの道を目指してはいけないような物言いになってきたが、何かが間違っているような気がしてならない。

 

洗練され優しくなった言葉は責任や力を失っているような、言葉は優しいが現実にバナナをくれる人がいないような、或いは集まって業界の不況を嘆きながら何もしていないような、そんな気がする。

 

こうした年齢になってしまうと誰も怒ってくれる者がいなくなる。

それ故に自分が恐くなる。

「馬鹿者が、お前のような者が職人を名乗るな、人の迷惑だ」、額に汗して仕事をしていた先達たちに私はそう怒られてきた。

在りし日の彼等がふと見せた笑顔を思い出すに、今の自分の力の無さに、知らぬ間に落涙している自分がそこに在る。



文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)