「職人にでも・・・」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2017/11/16 07:28

例えば明治21年(西暦1888年)の「輪島」周辺の村を見てみようか・・・。

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輪島から更に北に位置する「町野」(まちの)と言う所での一般家庭の暮らしでは、洋服を着ている者はまず存在せず、大体が少し丈の足りない綿の着物姿で、家の玄関に戸は立っていない。

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そこにはムシロが吊り下げられていて、それをめくって家族が家の中に出入りしており、こうした生活でも祭りの日となれば、たった一枚しかない着物を着て祭りに参加し、酒を飲み久しぶりに顔を見る女達と歓談し、夜通し無礼講で飲み続けたものだったが、そうして酔いつぶれて翌日は寝ているかと思えば、眠い目をこすりながら早朝から野良仕事に出かけていて、このような有様は太平洋戦争が終わる頃まで、そう大きく変化していない。

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輪島塗の世界の徒弟制度は、その起源をおそらく江戸や上方の商家のそれを模倣したものと考えられるが、都市が発展していくもっとも理想的な形として、農村部から人口が流出しない形で都市人口が増加することが望ましいとするなら、この明治から昭和初期の形態がまさにそれである。

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農村部ではどの家でも最低2人以上の子供が生まれ、その内「家制度」を維持する長男が残れば、後の兄弟姉妹は何らかの形で農村部から離れて行かざるを得ない事になリ、そうして農村部を離れた者達が市街地や都市部に集中して都市を発展させる。現代社会のように農村部を棄てて市街地や都市に人口が流出すれば「過疎」が発生するが、これは発展ではなく人口の移動にしか過ぎない。

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だが農村部の人口移動が無くて都市部が発展しているときは、これは事実上の発展であり、この意味に置いて発展の様式は多面性が有り、経済の発展と民族、国家そのものの繁栄は必ずしも同じものでは無い。豊かさが国家の繁栄とは限らないのである。

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輪島塗職人の中には農村部出身の者も多かったが、その背景には農村部の次男、三男が家の負担を軽減する為に、または自身の生活の為に輪島塗の徒弟制度へ入って行った経緯が少なくない。子供が多く貧しい田舎の家庭では小学校を卒業すると同時に次男、三男を輪島塗の丁稚奉公に出したのである。

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だからこうした時代の輪島塗職人は自身が選択してそれを目指したのではなく、輪島塗が好きでその世界に入った訳でもない。

むしろ生活の為にその世界に入った人が多かった訳で、こうした人たちが輪島塗の繁栄を支えたのであり、後年職人が全国区になった時代には、職人の道に入門する人口の殆どが「私は漆が好きでこの道を選択しました」となり、事業者や親方もこうした言葉を望むようになった。しかし、こうした言葉が多くなるに連れて輪島塗は衰退の道を辿ったのである・・・。

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最後に1981年、当時79歳だった輪島塗職人、山本義助さん(仮名)の話が残っているので、これを記載して置こうか・・・。

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「初めて親方の家に来たときは本当にびっくりしたものでした」「部屋を貰って綿の布団で寝たときには、ああここに来て良かったと思いました」「三度三度米の飯が食えて、たまには魚も出る、風呂にも入れて、その上に駄賃までもらえたのですから、そりゃ天国のようなものでした」

「言っちゃ何ですが、家でやってた百姓と比べたら、こんな仕事くらい、遊びのようなもんでした・・・・」


文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)