「孔子の礼」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2017/12/21 06:32

孔子の「礼節」はその字面を見れば虚しく見える。

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悲しみや苦しみ、喜び、感謝の気持ちを形にする事はそもそも不可能な事だが、これを現す様式が人によって様々になっているのでは意思の疎通が困難になる。

そこでこうした気持ちを現す時の態度や言語にマニュアルを作ったのが「孔子」で有り、ここではやがて人の心は形に依存して抜け殻になっていく。

心が無くてもその形を示していれば、「他」からは心が有ると看做されるからだが、この時点でものを言うなら孔子の礼節は人の逃げ道や怠惰の道を作った事になる。

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しかし、孔子はこれに対してこうも言っている。

「形が有れば失われてもいつかまた蘇る」

形は心を失わせ、人がそれに依存していく事を始めから承知し、しかもいつかそれは失われていく事まで覚悟の上だったのだが、人や社会が混沌に向かう時は、心が形となったその形から心が一つずつこぼれ落ちて、そして最後は何も無くなる。

だがこうして何も無くなりフレームだけになった礼節から、今度は人がそこに何かを見ようと試みる日が必ずやってくる。

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それは何故か、そも人の心の在り様が秩序と混沌と言う相反したもので出来ているからであり、人は秩序の中に混沌を探し、混沌の中に秩序を探す。

それゆえ失われる事はまた創られることでも有り、この場合元の姿に戻るかと言えばそうではなく、変化した人の意識やその当時の世情を反映したもので構築される事から、元の姿はその6割が失われていくが、それでも4割が残ればそれでも良い、それでも有り難いと思わねばならない、これが孔子である。

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人間の性意識や視覚情報処理の形式は生まれた直後ではアプリケーションが入っておらず、それは生まれてから作られるのも然り、これは遺伝情報系と言う37億年も続く地球生物のシステムが人間の社会を承認し、それを情報の中に残している事に他ならない。

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そして孔子の弁を借りるなら、人の社会は常にその6割が失われて行き、次に創られるものは必ず元の姿から劣化したものになる、或いは元の姿から拡散され薄くなったもので創られるゆえ、人の社会とは常に劣化の道となるが、この劣化とは何かの形に表すことの出来ないものであり、そのことが良いか悪いかと言えばそのどちらでも有り得ないものかも知れない。

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失われる事は解っている、だがそこで自分が何を為すべきかとした時に「例え4割でも・・・」と思った孔子の覚悟は壮絶なものだ。

また人間の道が劣化や拡散の道である事も悲しい事に見える。

しかしそのことが良いか悪いかと言ったら、私は一概に悪いとは思えない・・・。

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孔子の礼節が間違いなくフレームだけになってしまった今日、そのフレームに私が見る孔子は元の姿が失われたものに違いない。

されど今、あらゆる礼節が蔑ろになっているこの世で有ればこそ、私も「礼節」を説く以外に道を得ず・・・・。


文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)