2017/12/30 08:13

2014年現在、欅(きやき)の木地で上縁の円を変形させずに最も薄く曳いた椀木地の上縁の厚みは0・85mmだが、これが昭和55年(1980年)には0・6mmと言う薄い上縁の木地が存在した。

そしてこうした薄い上縁の椀はその薄さを殺してはならず、0・6mmの椀であれば下地工程での仕上がりは0・8mmまでに抑制しないと、その素地の特性は失われる。

.

補強布(カンレイ紗)を巻いた時点で0・1mmが失われ、残りの0・1mmの中で珪素土の焼成粉末(輪島地の粉)の荒いものから細かいものまでの「3種の粉」と「糊、」「砥の粉」と「漆」を練り込んだ下地漆を塗らなければ成らなくなる。

この場合一番厚く付いてしまうのが外側だが、こうした外側を塗るときは幅が30mm前後の狭い幅の木ヘラの先50mmから70mmを緩やかに傾斜をつけて塗師小刀で削り、ぺらぺらのヘラで塗るが、木ヘラはペラペラで有りながら腰がないと、上縁付近で急激に漆が付かなくなる。

.

カンレイ紗が貼ってないところは厚く、上縁付近は薄く塗って、しかも椀の曲線が持つ上縁の延長線を無くさずに上縁を薄く仕上げるには通常の木ヘラでは仕上がらない。

アテ(能登ヒバ)材を製材ではなく、木目どおりに割った「へぎ板」を薄い板にして、そこから取ったヘラでなければ、薄くて腰が有るヘラを取る事は出来ない。

このヘラで配った漆を一旦薄く取ってきて、その次に胴体部分からヘラで流してきた漆を1mmの20分の1くらいの厚みで上縁まで流して曲線の延長線を守り、上縁付近で急激に形がしぼむのを防ぐのである。

.

時々こうして私が漆を塗っていると、「ああ、何と言う素晴らしい技術だ、何としても残していかなければならない」と言う者がいるが、私は笑って頷きながらも本当はそうは思わない。

どんな技術も修練、慣れであり、どの職種でもどんな場面でも素晴らしい技術は存在し、私もまたこうした慣れの一つにしか過ぎない。

私は塗装工の一人で有り、この事に誇りを持っている。

.

もう30年も前だろうか、良く買い物をしていたスーパーのレジには私より10歳くらい上の女の人がいて、当時のレジは唯お金が入っているだけのものだったが、彼女はいつもたった1回でつり銭を握って出していた。

そんな光景を目にしながら、ある日は私は勇気を出して彼女にいつもたった1回でつり銭が出てくるが、それはどうしたら出来るのか聞いた時が有った。

.

彼女は慣れると30円なら30円、40円なら40円を読まずに1回で掴めるようになった。

これが1円玉でも同じ事が出来ると笑った。

「ああ、凄いものだな・・・・」とつくずく思ったものだった。

.

伝統工芸の世界に存在していると、どうしても自身の技術とかが特殊に思え、かつ自分しか出来ないと思うようになってしまうが、それは違う。

誰でも出来る事だったからこそ、自分ですら出来るようになったのである。

どんな職業でも一流は存在し、例えは悪くなるが、おそらくそれは乞食や売春婦と言う職業からでも既に始まっているものだ。

.

必要が有れば残り、必要が無くなれば消えていく。

この事を恐れ、自身の技術を森羅万象の理を超えて残そうと思うのは傲慢な事だ。

技術が在って自分や他者、世の中が在るのではなく、自分がいて他者がいて、世の中が在って自分の技術が在る。

この事を忘れては世の中に対して不遜な物を作ってしまうだろう・・・。

.

私が修行中、工場ではみんなグレーの作業服を着て仕事をしていた。

そこへ親方が東京からお客さんを見学に連れてきた時が有り、そのお客が私達を見て「ああ、囚人を使って仕事をさせているんですね」と言ったのが聞こえた私は、「何だと・・・」と言って立ち上がろうとしたが、私を止めたのは隣にいた老職人だった。

師匠は笑って、しかし強く私の腕をつかんでいたのだった。

.

後年「中村久子」と言う人の事を知り、彼女は子供の時に病気で両手両足を失い、それから見世物小屋で嫌々ながらも働くのだが、結婚もし名声も手に入れながら後にまた見世物小屋に戻って、今度は幸せそうにかつての芸を見せていたと言う話を知った時、あの若かりし日、私の腕を強くつかみながら笑った師匠の在り様を始めて理解したような気がした。

.

人間には年月を経ないと理解できない事がある。

今の私は「囚人か・・・」と言われたら、どこかで満ち足りた気持ちの中で「その様な者です」と笑っているだろう・・・・。


文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)