「やすやす」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/01/04 06:46

昭和50年代くらいまでだろうか、輪島塗りの職人が仕事を辞める場合には、誰もが納得できる理由と言うものが必要だった。

これは良くも悪くも徒弟制度の慣い、それに狭い社会が織り成す人間関係の親密さが背景に有っての事だったが、一番大きな要因は「家制度」と言うものの重要性が存在したからのように思える。

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「他に良い仕事があるので辞めます」、「給料が安いので辞めます」と言う話が中々許されなかった背景には「親方の顔」や、「弟子兄弟の顔」を潰すような真似は許されない環境が有ったからで、この点で言えば古いしきたりの輪島塗りの社会は「職業」としての面と、どちらかと言えば「家族関係」、「任侠道」のような複数の側面を持っていた。

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突然職人を辞めると言う事になると、まず「親方」に何か有ったのでは無いかと業界内部から見られてしまう。

更に辞めた本人も「親方」の家から何か物でも盗んで居られなくなったのではないか、そんな噂が町中を駆け巡り、一日中座って作業する他の塗師屋の職人たちの間では尾ひれが付いて噂されることになる。

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事実輪島塗りに使われる漆は昔から大変高価だった事から、これに山芋をすりおろして入れていた塗師屋が有ったくらいで、「夜なべ」と言って昼間特定の塗師屋に勤務しながら、夜は「受け取り」の別の塗師屋の仕事も仕上げていた職人などは漆をごまかして家に持ち帰る、若しくは親方の倉庫から塗り上がった製品を拝借すると言った噂に曝される事が少なくなかったが、この元々の原因は了見の狭い親方の言動が原因だった。

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余り良い待遇ができず職人が辞めていく塗師屋の親方は、自身の保身の為に「あいつは物を盗んだから辞めさせた」とか、「漆をくすねた」と言う言い訳を業界内部でしていたからであり、これが半ば常習してくると業界内部では親方、職人の相互が悪い噂に晒され、しいてはその塗師屋関係一門が同じような目で見られてしまう傾向が発生し、それは取引先の木地職人や蒔絵、沈金職人にも迷惑をかける結果となってしまうのである。

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勿論噂の真相など誰も知らないのだが、小さな町の狭い社会では噂が先行すると、仕事の遂行までにも悪影響が出ることになった。

昭和30年代までに新たに塗師屋を興し、親方になった者の殆どは町中で旧塗師屋の親方の家から漆をくすねて利益を出し、それを元手に親方になったと噂されたものである。

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それゆえいつしか輪島塗りの職人がその職を廃業する場合、一定の儀式が必要になったのであり、この時最も妥当な誰もが認める廃業の理由は「痔」と「腰痛」、「結核」に「視力を失う」事だった。

これらの病気は座ってあぐらをかいて仕事をする職人に取っては致命的な病気だった事から、これを理由に辞める事には「正当性」が認められていた。

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ただし、職人の廃業とは「引退」を意味している事から、現代社会で言えば「相撲界」と同じような仕組みで、廃業した職人は原則それ以降はどこかの塗師屋に勤務することはできず、家で内職程度の受け取り仕事をして一生を終えるか、それで無ければ都会で暮らす子供の所へ行ってしまうかのどちらかしか選択の余地はなかった。

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廃業を決意した職人は、まず自分が弟子修行をさせて貰った親方にこの事を申し入れ、次に現在勤務してる親方に相談し、そこから辞める時期が決まり、それまでに職人仲間のところや世話になった木地、蒔絵、沈金などの他技術職人の家を回って辞める挨拶をして置かねばならなかったが、こうして正規の理由で廃業する場合、修行した先の親方は弟子一門を集めて一席設け、また現在勤務している塗師屋の親方も職場一門を集め、酒席を設けてその職人の労をねぎらい、中には感極まって涙を流す親方もいたものだ。

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輪島塗りの「塗り職人数」は江戸後期から昭和50年代までそれほど大きく増減していない。

純粋に塗り職人となる者は300人に強弱が付いたくらいのものでしかなかった。

ゆえ、特に問題も起こさず廃業していく職人の数と言うものは年間10人前後であり、一方で事情により廃業する塗師屋の親方、また蒔絵や沈金などの職人なども存在する事、それに昭和30年代くらいまでは物が少ない時代であった有ったことから、こうして廃業していく職人や親方が所有していた道具などをオークションにかける制度が存在し、これを「やすやす」と言った。

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廃業を決めた職人は、半年に一度開かれる漆器組合の「やすやす市」に自分の使っていた道具を持ち込み、それが競りにかけられ、いくばくかの生活の足しになったり、旅費の一部となったりするような仕組みが存在したのだが、方やそれを買う者は新進の若手職人や、その職人に世話になった後輩職人だったことから、これらの者にとっても長年腕一本で生きてきた老職人の道具から学ぶものも大きかった。

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「やすやす」が開かれる日には沢山の職人たちが会場に集まり、そして廃業する職人に世話になった後輩職人たちは、できるだけ高くそれを買おうとしたものであり、それがその職人に対する思いと言うものだった。

またこうして「やすやす」に道具を出してしまうことで、挨拶回りも済ませた職人の廃業は町中全てに知れ渡る事になり、妙な噂も立たず、親方も職人も共々「完遂した者」として尊敬の対象になったのである。

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ちなみに輪島塗の職人が職人として認知されるには、書面や証書などの文書を必要としない。

親方が一人前になった証として「年季明け」と言う儀式と酒席を設ける事で成立し、ここに出席した来賓たちの口からそれが広まることで成立したのであり、この点に措いて小さな町の濃密な人間関係は有効に働く部分を持っていたが、職人が職人として認められるときも、そして辞めていく時も「契約」や「権威」では無い部分で為された事の意義は大きい。

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昭和50年代から始まった「年季明け」の証書発行制度以降、職人の数は減少し始め、現在では伝統工芸系、日展系の作家、またはそれに準ずる作品活動をしている者は多いが、純粋な職人の数はおそらく100人前後にまで減少し、その中でも権威では無い、自分の腕だけを信じる職人はおそらく10人を数えられる事はないと思う・・・。


文責 浅 田  正 (詳細は本サイトABOUT記載概要を参照)