2018/01/09 05:47
私がまだ幼い頃、旧盆が過ぎた頃には越前(福井県)から稲刈り鎌を売る行商が来て、祖母などはそこから鎌を買っていたものだったが、稲刈りが終わると今度は越中(富山県)から行商が来て、米の収穫で多少とも懐が暖かくなった農家は、そこからおそらくイミテーションだったのだろうが、掛け軸や置物を買っていたものだった。
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この意味に置いて輪島塗の販売が他府県への行商に起源を持つ事は特殊な事情ではなく、昭和50年代までの日本の物販方式の一様式が「行商」に有ったと言うべきなのかも知れない。
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私は師匠の最後の「手の後」(てのあと)、つまり最後の弟子だった事から師匠はその当時で76歳、明治、大正、昭和を腕一本で生きてきた人だったが、塗師小刀は出雲の鍛えを使っていた。
薄い、本当に薄い水色が玉のように並んだ刃は美しく、硬ければ刃こぼれを起こし易く、柔らかいとすぐ「あがる」(切れなくなる)刃物の中では、出雲の水色は最もバランスの高い鍛えだった。
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そして昭和40年代後半くらいにはかなり減少していたが、こうした塗師小刀の刀身だけを売る出雲の行商も存在していた。
現在の通貨価値からすると一本が1万円から1万2000円くらいだが、こうした刀身を担いだ行商が輪島を訪れるのは春3月が多かったのは、この季節に輪島塗の弟子入りが多かったからと言われている。
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輪島塗の弟子修行で一番最初の仕事が、自分の塗師小刀の柄を差す(刀身に柄をつける)事だったゆえ、これに合わせて出雲から刀身を売りに来ていた人が存在していたのであり、こうした出雲と輪島の関係は偶然にできたのではなく、やはり行商に有る。
出雲は古くからの鉄器産地だが米どころでも有り、こうして発生していた豪農の所へ輪島塗の行商が為されていて、秋の稲刈りが終わる頃、朱塗りの家具椀や家紋の入った大型の五段重などを担いだ輪島の塗師屋が訪れていた。
つまり出雲と輪島は行商を通して相互の経済コミュニケーションを築いていた。
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だがこうした行商形態はその後発展してきた交通手段と、輸送形態の変化により徐々に衰退し、共に経済効率の良い販売形態へと変遷したことから、昭和50年にはコミュニケーションが無くなり、その後10年の単位では輪島塗そのものも衰退していった。
それゆえここから見える事は輪島塗の基本が「行商」に有ると言う事で、形を変えてもこうした姿勢の再構築こそが次の輪島塗の発展には不可欠となるような、そんな気がする。
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最後に、刃物は一般的に研いだ直後は切れ過ぎる事から、塗師小刀でも砥石に当てた後は、一本だけ使わなくなった短いヘラを削って調整する。
これを怠り最初から大事なヘラを削ると、切れる刃はヘラの木目に深く入り、ヘラの木目に食い込んでしまうからであり、人を斬る刀も同じである。
適度な抵抗を失った刃はコントロールが難しく、微妙に「間」が狂ってしまう。
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刀の切れ味は切れ過ぎても、切れなくてもよろしく無い・・・、自分の切れ味が大切なのである。