2018/02/20 08:12

お茶の世界では道具の一つともなっている「棗」(なつめ)だが、その起源には二重性が存在している。

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一つにはその装飾の時代的変化だが、例えば室町時代の棗には華美な装飾が施されたものが存在し乍、その後戦国時代末期には全く装飾を施されていないものが存在してくる事、また記録上明確に「棗」が出てくるのは「天王寺茶会」(1564年)で「津田宗達」が使ったと言う記録が最も古い記録で、しかもこの時は他の薄手茶器「木製の茶器」より遥かに下の座に措かれていた。

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また江戸時代の記録には棗に梅の花が入れられている記述が存在するが、室町の時代にも香り草の記録が垣間見える。

この事から「棗」の歴史は「茶道」の歴史より古く、元々香り入れ、薬入れ、茶入れなどとして中流以上の階級では既に使われていたものが、茶道に転用されたと見るのが妥当な解釈かも知れない。

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1564年の天王寺茶会で置かれた棗の立場の低さは、「新参者」の扱い、身分卑しきものの扱いであり、ここに一つの結界に措ける日常性の空間、偶然と必然が一体となった茶の席と言う場に、恥ずかしそうに座っている町娘のような棗の姿を見る思いがする。

更にこの時代の棗が黒刷毛目塗りと言った、極めて質素な仕立てで有る事に鑑みるなら、そこに出てくる非装飾性はちょうど千利休(せんのりきゅう)の「ルソンの壺」にも似たりで、華美なものに対する抵抗、つまりは既存権力に相対した考え方に基づいている可能性が高い。

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室町時代には一般庶民の普通の道具で、華美な装飾が施されたものも存在する中、敢えてそれを自身の世界に入れることで、華美な装飾を廃する事で、既存との区別を持とうとした茶道の姿勢には、煌びやかな事の中に潜む愚かさや、他を省みない事への抵抗としたのではないかと考えられ、ここに早くも茶道には既存が有り、これに対する抵抗を見ることも出来るのである。

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そして今日、千利休好みとして多くの形の棗が存在し、かつ煌びやかな装飾を施された棗を見るに付け、私は随分可愛そうだなと思っていたりする。

本来は梅の香りを楽しんだり、香り草を楽しみ、或いは貴重な薬を入れてどこにでも置かれていた棗が、茶道と言う権力の捉われの身に堕ち、豊かだが自由を失った、以前は純朴な、しかし今はおはぐろの姑となった町娘のように見えてしまうのである。

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世の中には権力でしかそれを擁護できないものも多いが、その権力によって縛られてしまうものも多い。

美味しいものが食べれて綺麗な着物が着られ、何の不自由なく暮らせる事が幸せかどうかは解らない。

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江戸元禄時代に体を売って自身の父親の生活を支えていた少女の記録が残っているが、彼女は祭りの日に父親から少ないが小遣いを貰って、楽しそうに祭りに出かけて行くのである・・・。