2018/02/28 06:32



聖書レビ記16章弟8節から10節にかけて「アザゼル」と言う言葉が出てくる。
この中で、司祭は2頭の山羊(やぎ)についてくじを引いて、1頭はヤハウェ(神)に、そしてもう1頭はアザゼルの為にとあり、神のために選ばれた山羊は生贄として奉げられるが、アザゼルの為に選ばれた山羊は司祭がその頭に手を置いて民の罪を告白し、その後人のいない荒野へ放たれるのである。

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では2頭の山羊を神と分けた形になるアザゼルとは何者だろうか。
これに付いて教会へ問い合わせると、ある神父は口を閉ざし、またある神父は「話したくない」と答えた。

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またゼカリア5章弟6節から11節、ここに「エファ升の女」が出てくる。
エファ升とは円形の桶のことだが、この中に女が入っていて、「これは邪悪だ」と聖霊が言い、やがて別の2人の羽が生えた女が来てこの升を運んでいくのだが、邪悪だとしたこの女は、なぜかシナイの地で家を建てて貰いそこで置かれると言うのだ。
この女の正体は何で、彼女を運んだ別の羽の生えた2人の女は神の側か、邪悪の側なのか。

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この2つ、アザゼルとエファ升の女を正確に答えてくれる教会は意外と少ないかもしれないが、2つとも正体は光に対する闇である。
アザゼルはサタンを指し、エファ升の女は恐らくアシュタロテ、メソポタミアではイシスと呼ばれた豊穣の神だが、ユダヤ教では姦淫によりこの世に悪を振りまく存在とされている邪教神である。

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だが、不思議なのはこうした邪悪なものをなぜ神は滅ぼしてしまわず、家を建ててやったり野に放ってしまうのだろうか。

まずアザゼルから見てみようか、サタンはもともとナイル川のワニの神だったものが、ユダヤ教では元聖霊のルシファと重ねられ、サタンはこうした経緯からワニの神としての性質を持っていて、アダムとイブが知恵の実を食べたのに対して、命の木の実を食べたのでは・・と言う研究者もいる。

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また他の説では神が沢山の聖霊を創ったためその精霊達が地上の女と交わり、そこからよからぬものが多く生まれたとしているものもあるが、ヨブ記では神が多くの聖霊を招いたとき、そこにサタンも来ていて、神が「あなたは何者?」と問いかけ、サタンは「旅の者です」と答えているが、そもそも神にしてはサタンに何者か訪ねる必要など始めからないはずなのでは、と思ってしまう。
さらに、こうした邪悪な者に対していくらお祓いの儀式だとは言え、サタンの為に山羊を、サタンのためにである。

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そしてエファ升の女、アシュタロテはもともとバビロンで豊穣の神として信仰を集めていた女神で、エジプトにその像が残っているが、数え切れないほどの乳房を持つ女神像だ。
豊穣の神とは穀物の豊作と、多く子どもが生まれることを祈願するためのものだが、ユダヤ教は結果として民族的に交わることをその教えの中で厳しく制限したのは、他の民族が民族同志で交わって行ったため、国とか民族が崩壊していったことを良く理解し、それを防ぐ手立てを取っていたのではないだろうか。

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またこうして邪悪な者を滅ぼさなかったのは、実は滅ぼせなかったのではないだろうか。
どうもこうした記述からユダヤの神が後発の神だったからで、もともとあった近い宗教と区別をつけるため、古い宗教はそれが盛んな地域で押し固めて、自分達の宗教を守る形にしたということだったようでもある。

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古代バビロニアの遺跡から出土した印章にはアダムとイブの物語に非常に近い物語がレリーフになったものや、命の木に関する記述が多く刻まれた粘土板が出土されている。
このため創世記でアダムとイブが食べた知恵の実の他に命の木があり、「この木をケルプ達と・・・に守らせた」(創世記3章24節)とする記述から、この2つの実を食べれば神になれるとした伝説がまことしやかに言い伝えられたのは、神はイブ達が知恵の実を食べた後、命の木に厳重な警護を付けたからであり、サタンはイブより先にその両方の実を食べたのではとする説がここから出てくるのである。

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「サタンに何者?」と訪ねるのは神の方が新しかった可能性があるのではないか、そしてアザゼルにせよ、エファ升の女にせよ、何か人事のようなこの軽さは何だろう。
まるで昼間はサラリーマンやってますが、朝、新聞配達のアルバイトもしていますと言ったような、職務主義的邪悪さが感じられる。
神と善悪を巡って激しい攻防を繰り返しながら神の儀式ではのこのこ出向いてお祓いに参加しているアザゼル、まるでどちらでもどうでもいいような羽の生えた女、そしてなぜか邪悪なのに家を貰って住むエファ升の女、それによって実際血の償いをしなければならない民衆、なぜか現代の我々が住む社会と重なって見えないだろうか。

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また黙示録20章弟7節から10節に出てくるゴクとマゴクは神の民に最終的に逆らう民の総称として用いられているが、これはエゼキエル書では北、つまりロシア、アルメニアなど北方民族や小アジア民族を指していることが明白であることから基本的に悪魔としての概念ではないが、女の偽預言者が未来を訪ね、それに答えるペルゼブブは固体悪魔になっている。

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ペルゼブブはハエの王と呼ばれるが、実はバビロニア、メソポタミアでは情報を教えてくれる神、神託、予言の神としてあがめられていた。
だから聖書中個体名詞を持つ悪魔はサタン、アシュタロテ、ペルゼブブであるが、いずれもその地方の古代神でもある。

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よくヨハネの黙示録がいろんな予言をしていると言うキリスト教関係者は多い。
だが、ヨハネの黙示録的話は旧約聖書を読めば何度もでてきていて、それを視覚的にダイナミックにしただけであることが理解できるはずである。

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またこうした普遍性の高い内容は、孫子の兵法と同じで、殆どの事柄に当てはまるものなのである。

聖書のこの記述は当たっています、この記述もそうです・・・だから神を信じるべきなのですと言う勧誘、終末が来て審判の日が来る、その時救われたいとは思いませんかと言うキリスト教関係者はおおいが、これは最も神の教えに遠いものであると思う。

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そもそも神を信じているなら聖書の記述など当たっていようが、いまいが関係ないことだし、予言があったとしても、それによって自分の何が変わると言うのか・・・。
どの道そうなることなら、例え明日世界が滅びようとも私達は何も変わらないのである。

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ヨハネの黙示録には終末の時、偽りの救世主が現れ、世界を混乱の底まで導くとされているが、救世主を求めるから偽りが顕れるとも言えるのである。
神の袖に隠れ、自らの小さな概念で信じた聖剣を振り回す者は多くの人を傷つけるだろう。