「ぼんぼろ風」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/04/12 22:57

冬は風に拠って始まり、風に終わる。

11月中頃か後半、日本海を低気圧が急激に発達しながら進み強風が吹き荒れ、雹(ひょう)や霰(あられ)が「からんからん」と音を立てて瓦を叩き、こうした事が連続するようになると本格的な冬がやってくる。

 

一方冬が終わる時も、やはり日本海を急速に発達しながら低気圧が通過し、台風を超えるほどの強風が吹き荒れて、こんな事が幾度も間隔を広げながら、やがて春がやってくる。

この春の訪れを告げる強風を「春一番」と言うが、輪島塗の世界では春一番より少し遅れて吹いてくる、穏やかな風の事を表現する言葉が残っていた。

 

輪島では冬の湿度は高いが、その反対に一年で一番湿度の低い季節が春であり、特に4月中頃から5月中旬の暖かい日、湿度が40%以下の暖かく穏やかな風が吹く時がある。

輪島塗の職人達はこれを「ぼんぼろ風」と呼んで、暖かい風の有り難さを思いながらも警戒した。

 

湿度が低い為に漆が乾燥しにくくなるからだったが、もっと深刻だったのは素地段階の状態、木製加工状態のものは、この「ぼんぼろ風」が当たると反りや歪みが生じ、糊付け段階のものは素地がバラバラになってしまう事が有ったからである。

 

その為「ぼんぼろ風」が吹く前には木地を固めておく作業を急がねばならなかった。

せっかく木地屋さんから届けられた「七五四段重」「ひちごよんだんじゅう)が放置して置くと、バラバラになってしまう事すら有った為、漆で接着して置かないと大損になってしまう。

 

何としてもこれだけは避けたいところだったし、下地塗りでは「ぼんぼろ風」は仕事の遅れの理由としても成立する要件だった。

 

また「ぼんぼろ風」の定義はとても趣(おもむき)深いものがあり、ここでは4月中頃から5月中旬としたが、正確には「田んぼに水が張られる頃」に吹く暖かい風の事であり、つまりは稲作の「荒起こし」から田植え前」の短い季節を指す。

 

輪島塗りの職人達は水田に水が張られ始めると、「お~、ぼんぼろ風やな・・・」「気~つけにゃならん」と言いながら、その顔は決して苦しそうな表情ではなかった。

漆が乾燥しないのは困った事だが、その困り具合は決して春の暖きを嬉しく思う気持ちを超えるものではなかった、と言う事なのかも知れない。

 

ちなみにこの「ぼんぼろ風」は言語としては既に死滅してしまった可能性が有る。

経営効率優先、農作業従事者の高齢化に拠って、1980年代と比較しても現代では田植え時期が早まっているからであり、輪島塗の職人界では高齢者の引退や死去に拠って、「ぼんぼろ風」と言う言葉が使われなくなってしまっているからである。

 

白か黒か、右か左か、と言う具合に何が何でも決着を求めてしまう現代社会に在って、ぼんやりとした春のような在り様が一つくらい残っていても良いような気がするのだが、観光アピールとして「あえの風」は有名になったものの、職人言葉の「ぼんぼろ風」は滅んでしまった。


 「風」の表現が一つ失われるのは辛いので、ここに記しておきたい・・・。