2018/04/17 07:05

その記憶は非常に曖昧だが、ある夏の暑い日、恐らく4・5歳だった私は祖母に手を引かれ、ジリジリ照り付ける太陽の熱で逃げ水が走り、ゆらゆら陽炎が立っている道を歩いていた。

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当時のこの辺の道路はまだコンクリートだったように思うのだが、そのあちこちにヒビが入っていて、それを補修したのか少し盛り上がったところがあるその道は遠く、祖母の顔を見上げながら、まだ着かないのか、まだ着かないのかと思いながら暑さと疲労で泣きそうになっていた。

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やがて祖母はそうした私に気づいたのか、自身も暑さで辛くなったのかは分からないが、一軒のカキ氷屋へと私を連れて入っていったが、どうだろう恐らく何かの祭りの時期だったようで、午後2時くらいと言うのにその店には大勢の男や女、そして私より少し上くらいの子供で賑わっていた。
祖母は確かイチゴの赤いシロップのカキ氷を注文し、その量の多さに私は一挙に暑さが吹き飛んだ気がしたものだった。

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祖母は和服に巾着を持っていたが、こうした格好は今なら目立つかもしれないが、当時こうした格好はさほど珍しくもなく、下手をすれば女でも薄いシャツを着ただけで乳房が透けて見えたり、脇から少しそうしたものがはみ出ていても、本人も周囲もさほど気にするような繊細な時代ではなかった。

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誰もがみんな若く、生きる為、子供を食べさせる為に必死の時代、貧しいけど力のあるときだったのだろう、少しくらい胸が見えたくらいは、例え男でも目に止まる事すらなかったのかも知れない。

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カキ氷屋を出た祖母と私は左側に大きな川が流れ、少しずつ漁師町に近づいたのか魚が干されるにおいがするところを通って、うっそうとした緑に囲まれた、この地域ではかなり大きな神社にたどり着いたが、周囲には何十、いや百くらいはあろうかと思われるほどたくさんの屋台、夜店が並び、陶器を売るもの、鎌などの農具を売るもの、タイヤキや綿飴など、ありとあらゆる物が売られいて、子供が歩くのは困難なくらい大勢の人で賑わっていた。

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私はこの時てっきり何か買ってもらえるものだと思っていたのだが、何故か祖母はそうした屋台を素通りすると、神社の端にある怪しげな小屋の前まで私を連れていった。
今にして思うが、この時これは私の為と言うより、祖母が見たかったのだろうと思っているが、その小屋の看板には毒々しい女とヘビが描かれ、「ヘビおんな」と言う見せ物をやっていたのだった。

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内容は・・・とても子供の見る代物ではなかった。
どこから素肌でどこからが化粧か分からないほど不自然に色の白い女がキラキラの衣装で出てきて、ヘビを口から入れて鼻から出す、切って細かくしてそれを食べる、たくさんヘビが入ったガラスケースに女が入って・・・云々、やがて火をつけたロウソクをたらしたり、口から火を出してヘビを焼いたりと、滅茶苦茶な光景が広がり、私は子供ながらに唖然・・・と言うより漠然とだがそうした行為に神に対する冒涜のようなものを見ていた。

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その見せ物は恐らく40分くらいだったように記憶しているが、終わったあと私は目が開いたままになったが、祖母はさほど気にかけた様子もなく、私の手を引いて小屋を出ると、お目当ての稲刈り鎌を買おうとしたのだと思うが、ここで私は祖母とはぐれてしまう。

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小さな背丈では祖母の姿は見えずあちこちさまよったが、最後に私は唯一通った記憶があったあの見せ物小屋まで戻ってしまった。
見せ物小屋は何時間か間隔を置いて上演していたのだろう、私がその入り口に辿り着いたときは誰も客がいなくてシーンとしていて、私はそこで来る保障もない祖母を待っていたが、そこへ一人の若い女がやってきて声をかけた。

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「母ちゃんとはぐれたのか」その女は恐らく20歳は超えていなかったように思えたが、喋る言葉が少し変だった。
舌足らずと言うか、発音がはっきりしない、明らかに普通の大人の言葉ではなかった為、私はとても大きな警戒心を持ったことを憶えているが、その次の瞬間もっと怖いことになった。

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なんと女が持っていた風呂敷包みの端からさっき見たヘビ女の衣装らしきものの柄が見えたからだが、女はそうした私に気を遣ったのか「オレも母ちゃんに会えないんだ」と言うようなことを言い、恐らくなだめようとしたのだろうが、ここまでが限界だった。
ヘビ女だ・・・食べられる・・・それしか考えていなかった私は、ついに大きな声で泣き出してしまったらしい。

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意外にも近くまで来ていた祖母はその泣き声で私に気づいたらしく、慌てて見せ物小屋までやってくると、「家の子に何をする!」とばかり、私の手を引っ張って抱き寄せた。
なぜか分からない・・・が、こうして今になってあの時の女の顔が浮かんでくる。
祖母はまるで誘拐犯人か悪者のように女を見ていて、そうした態度だったが、女は黙って何も言わず小屋へ入っていって、その時の顔が鮮明なのだが表情が思い出せない。

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後から知ったことだが、こうした見せ物小屋と言うのは体に障害のある人を使っていて、障害者の人達の収入源だったらしいのだが、その昔はひどいもので、奇形の子供や障害者をこき使って見せ物にし、場合によっては誘拐までして卑猥な見世物につかったり、人身売買で売られた子供がこうしたことに使われた時代まであったのだが、昭和50年に障害者をこうした見せ物に使うことは法律で禁止された。

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そしてこうした話でもう1つ私の記憶に残っているものがあるのだが、確かはるか昔に読んだ本で、民間放送でも紹介されたことがある、中村久子と言う人の話だ。

3歳のときに脱疽病にかかり、両手両足を切断、再婚した母は彼女が11歳の頃から厳しく教育し、裁縫、刺繍、編み物と両手が無いにも関わらず、出来なかったのは帯が結べないことだけだった、と言われるほどまでにするが、20歳で見せ物小屋へ売られ、その時の芸名が「だるま娘」、人前で編み物や、刺繍などの芸を披露するのだが、「何だ、それだけか・・」「おい、だるま」など20歳の娘には辛い言葉が浴びせかけられ、彼女には絶望的な日々が続いていく。

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そんな彼女は救いを仏の世界に求め、やがて書道家の沖六鳳、同じよう両手両足が無く寝たきりだった座古愛子らとの出会いから、やがて日本の身体障害者の地位向上運動へと活動を広めていく。
その間には結婚と離婚、そして結婚、出産と波乱の人生を展開し、書道でも有名になった久子は、もう見世物小屋で働かなくても良いほどになっていたが、なぜか23年、つまり久子が43歳になるくらいまで、この仕事を続けるのである。

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久子が見せ物小屋に出なくなったのは、正確には他のことが忙しくて出られなくなったと言うべきなのだが、この頃の彼女はあんなに辛くて嫌った見せ物小屋の仕事を、なぜか嬉しそうにこなしていたと言われていて、観客もそうした久子をもう誰も笑わないばかりか、大きな拍手を持って迎え入れたと言う。

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1937年に来日したヘレンケラーは中村久子に面会し、その両手がないこと、両足がないことを知ってこう言う・・・
「ここにも天使がいる・・・」

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あの夏の日・・彼女は母ちゃんに会えたのだろうか・・・。