2018/04/25 05:51


時は文化13年(1812年頃)の江戸、9月とは言っても残暑きびしい毎日、寝苦しい夜が続いていたが、この年こうした暑さにはぴったりな、何とも不可思議な話が江戸の町をかけめぐり、両国橋に並ぶ茶屋はどこも夕涼みの客でいっぱいになった。
そしてこうした客たちは夜がふけてもいっこうに帰ろうとしない、そればかりか川端をぶらつく人は逆に増えてくる勢いで、皆おしなべてしきりと本所界隈の夜空を眺め、何かが起こるのを心待ちにしていた・・・。
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さてその話の真相とはいかに・・・。
幕府の侍医、山本宗英法眼が夜の10時頃両国橋を渡っていると、吾妻橋から大橋の方へ青い光の炎が動いていくのが見えた・・・元柳橋の方へそれは漂っていく・・・。
何事だろうと闇を透かして目を凝らした法眼、腰を抜かしそうになった・・・なんと空中を、青い衣の衣冠束帯の行列が、騎馬をやはり青い火炎で守護しながら、ゆっくり進んでいくのが見えたのである。
みんな黙ったまま、静々とその行列は橋から数メートル上空を歩いていく、そしてやがてのこと、その行列は少しづつ角度を上に向け、空に上るような格好になって消えていったのだった。

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この話は当時の江戸でもっぱらの噂になり、講釈師がまたそれに尾ひれを付けて語り、話に油を注ぎ、かくして噂を聞きつけた人達が、一目青衣の行列を見ようと、両国橋にわんさと押し寄せる事とあいなったのである。

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またこれが記録に残っている話としては、8月18日の夜、儒学者・多紀貞吉が家の者4,5人を引き連れ、両国橋あたりを夕涼みにぶらついて、そろそろ九つ(午前0時)すぎのこと・・・・良い月夜だが人通りもまばらな広小路にさしかかったときのことだ、お付のものが突然「あれ、あそこに何やら・・・」と言う言葉に皆がそちらに目をやった・・・。
何と、かなたの家並の上空にパーっと花火のような火の玉が、ふわふわと飛んでいく・・・。「人魂ではないか・・・」

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一同は恐る恐るその光を目で追ったが、その直後皆であっと叫ぶことになる・・・、火の玉に少し送れて、奇怪なものがその姿を現したのだ。
狩衣姿の人が青い馬にまたがり、空中を静かに進んでいく、地面から3メートル以上も上の空間を、しかも膝から上は見えているのに蹄(ひづめ)のあたりからボーっと消え、それが月明かりの中に、はっきりと浮かび上がっていたのである。

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女たちは歯がガチガチ鳴って止まらなくなり、男たちにしがみつき、家に帰っても恐ろしさの余り一睡もできなくなってしまった。
多紀貞吉は、この不思議な目撃談をすぐに兄で医師の山崎宗固に話し、宗固は江戸城に出仕したおりこれを同僚に話したが、その弟子が「我衣」と言う随筆集を出し、この話をその中に集録した。

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1812年・・・この年の9月4日、関東一帯は恐らく台風だと思うが、激しい暴風雨に襲われ、それはこれまでに無い激しさで、大きな被害を出した・・・、そこで人々はこの幻の天上人の目撃談を大暴風雨の前兆と考える向きもあったようだが、同年は流れ星の多い年で、夜空には火球(かきゅう)が多く観測された記録も残っている。

江戸を騒がせた火の玉や青い天上人の正体は「火球」だったのかも知れない。

更にここから火球と水害が結び付けられて考えられるようになったのかも知れない。

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ただし、欧米でも数は少ないが水上馬(鉄砲水)と火球が関連付けて伝承されている言い伝えは存在する。

単なる幻想や、言い伝えだけでは片付けられないものも感じてしまう・・・。

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月夜の夜は気をつけようか・・・。