「不如無知」・2 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/05/02 06:06

小人の謙虚と大人の謙虚にはおよそ対極的な差がある。

小人の謙虚には裏があり、二面性があるもので、例えば小さな町の商店主なら、店にいるときはまことに平身低頭なのだが、それが商工会の集まりともなれば、「俺こそは・・・」になってしまう者がいる、あの空虚な謙虚さである。


だが大人ともなればそうは行かない、およそ会う者全てに謙虚でなければ、それは大きな仕事をなし得ない。

小人ほど傲慢になり、大人ほど謙虚なものなのである。


また貧しきものはそれを隠そうとする。

それゆえ本来は無意味かつ、身分不相応な「人並み」を他人に対して示そうとするが、そんなことをしている時間があったら、しっかりと働き、それを蓄えるのが本当の意味での貧しさの脱却となるのであって、これは心の貧しさ、知識の貧しさも同じである。

いわんや、心貧しきものほどそこに「徳」を見せようとし、知識のない者ほど知っていることを示そうとするものである。


餓鬼とはそうした名の鬼のことではない。

幾ら食べても、眼前に山のように食べ物があっても「まだ足りない」「まだ足りない」と思うその心の浅ましさを指したもので、言わばこれは状態を示しているのである。

だからこの意味に措いては人間世界の全ての場面で「餓鬼」は存在し、それは人から愛されたいも然り、金が欲しい地位が欲しいも然り、人から良く思われたいもまた然りだ。


高価な外国製のスーツに身を包み、黄金の時計をしている者の自信は極めて浅くて脆い。

なぜならこうしなければ信用がなかったり、自信がないのであれば、それは金を持っていると言う状況が、表面上通用する世界だけのものだからであり、決してその人物が敬服されているのではなく、「金」に対して人が服従しているに過ぎないからである。

同様に他人から評価を得ようとして頑張る者の、その評価を何に使うのかが「自己満足」や「自己顕示欲を満たす」である場合は、そこに存在するものは容赦のない「餓鬼の道」となる。


人から褒められたから、反対に批難されたからと言って、それで自分の何が変わるのかと言えば、何も変わらず、これが尊敬された、軽蔑されたからと言って何が変わるものでもない。

人の怒りや、不満と言うものは感情であり、所詮は相手が謝るか、自己主張が通るかで消失してしまうものだ。

だが言葉で人に勝ったとしても、そこから生まれるものは、もしかしたら相手の「恨み」かも知れず、「敵意」かも知れない。


散々時間を使って、自分はすっきりするかも知れないが、そこから生まれるものが、およそ自分の望むものとは逆のものでしかないなら、それは無駄以外のなんでもなく、未来に措ける禍根でしかないとしたら、自分の気がおさまらない事くらいは目を瞑ろう、また人のことを詮索して、そこから更に悩みが増えるなら、知らずにいた方が無駄に苦しまずに済む・・・、これが「不如無知」と言うものである。


そしてこれが決して人間的「徳」ではなく、利益の「得」の為としているところに、この言葉の深さがある。


私も呂蒙正ではないが、了見が狭いゆえ、知って無駄に苦しむのは辛いのではないかと思う・・・。