2018/05/11 05:08

日本で初めてボーナスが支給されたのは1876年(明治9年)の事で、当時の三菱商会はこの時西欧と何等遜色の無い金額、またその基本精神も欧米型のボーナスに近い意味での支給を実行している。


日本では江戸商家の慣習で「仕着」と言う制度が有り、これは「盆」と「暮れ」に商家の当主から奉公人に配られた「心付け」であり、「故郷に帰省するなら着物の一枚も買い、土産の一つも持ちなさい」と言う意味のもので、辞書などではこれをボーナスの起源としているものも有るが、本質的には「仕着」と「ボーナス」は意味が異なる。


「仕着」はあくまでも「経営者の気持ち」だが、ボーナスは「特別給」で有り、実行された仕事がもたらした成果に対し、給与とは別に一時的に支給される報酬である。


この意味で三菱商会の「岩崎弥太郎」が社員に支給したボーナスは、「仕着」の慣習とは一線を画するものと言えるが、三井、住友など同じ三大財閥でも300年以上の歴史が有る財閥も、後年ボーナスを支給するようになった事から、商家の「仕着」の歴史が踏襲された形と、欧米型のボーナスが一体化してしまった経緯が有る。


そして太平洋戦争後の日本は常にインフレーションに喘ぎ、生活はとても大変だった事から、こうした生活を助ける意味で、盆と暮れに一時金を支給する制度としてボーナスは定着する事になった。


輪島塗の世界でボーナスが一般化するのは1965年(昭和40年)前後で、それまでは江戸商家の「仕着」に近い制度で「めあかし」と言う慣習が存在していた。

これは塗師屋(漆器店)の親方(店主)からお盆と暮れに職人や弟子たちに配られるボーナスだったが、その内容はあくまでも気持ち程度のものであり、更には親方の恣意性で金額が決まっていたりするものだった。


この意味でも査定が有るボーナスと「仕着」の差は有るのだが、面白いのは「めあかし」が弟子には二重制度になっていた点である。

塗師屋の弟子には親方からと、そこに勤務している職人達の両方から「めあかし」が出ていたのである。

仕組みとしては親方から職人や弟子たちにボーナスで有る「めあかし」が配れるが、弟子のそれは修行中の身なればとても少なく、為に職人達は貰った自身の「めあかし」の中から僅かずつの金額を集め、それを更に弟子への「めあかし」としていたのである。


みんな通ってきた道なれば、その苦しさや厳しさも解っている職人達ならではの制度が存在していた訳だが、これが欧米型の雇用制度が確立し、やはり欧米型のボーナス概念が一般化する1975年(昭和50年)前後には、消滅に向かって行き、ボーナスは雇用主に一本化されて職人達から弟子への「めあかし」は無くなった。

つまり輪島塗り独自の制度で有り、言葉だった「めあかし」はこの時点で消滅したのである。


「めあかし」の語源は「目明かし」とも「目灯し」と言われるが、その意味するところは「供え物」「燭台に火を灯す」「良い方法で注意を喚起する」である。

少ないが金でまたやる気を起こさせると言う事での「目明かし」、目標が出来たり、少しだけ眼前が明るく感じることが出来ると言うニュアンスの「目灯し」、この両者を包括して自然と「めあかし」の制度や概念ができて行ったのだろう。


現在、輪島塗の世界では、この言葉を使う習慣は消失した。


しかし能登一円、主に高齢者ではあるが、「めあかし」と言う言葉が稀に使われる事があり、その場合の「めあかし」は本来一般的に使われた基礎概念、仏壇や焼香時に供えられる小銭の事を指している。