「漢字の起源」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/05/24 05:18

実は漢字の歴史については、それが発生してきた時期について、詳しいことが分ってきたのは1890年代に入ってからのことだった。
中国河南省北部、安陽県で亀の甲羅や獣の骨に、鋭利な刃物で傷をつけた文字が発見されたが、これを「甲骨文字」と言って、これが漢字の歴史の始まりである。
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同地は太古の昔「殷」(いん)と言う国の都であり、漢の時代すでに「殷墟」(いんきょ)と呼ばれていた事から、紀元前数世紀頃には伝説となっているほど、この殷と言う国が成立した時代は古い。                               ・
 
そしてこの安陽県から出土したものの中には青銅器や玉器、大きな王の墓や建物の土台などが発掘されたが、その中でもひときわ大きな発見となったのは文字の発見だった。
殷の人々には宗教的未来観が存在し、それ故、そこでは全てが占いによって現在の有り様を決めていく、文化的な土壌が有ったようだ。                                 
当日から起算して10日間、これを「旬」(じゅん)と呼び、この期間に禍が無いか、今夜は雨が降らないかどうか、などの日常のことから、明朝出立する戦いに勝てるかどうか、先祖の祭礼を行っても良いかなどの民族、国家的な問題まで、殷の人たちは全て占いによって神意に伺いを立て、それによって行動していたものと思われる。
                                   
またこうして占われたものは、その内容を巫(みこ)や「史」(ふびと・記録者の意味)が亀の甲羅などに刻みつけて保存して置いたが、それが3500年と言う歳月を経て、今日の時代に発見された訳であり、こうした文字は、その発祥理由が占いであることから「卜辞」(ぼくじ)とも呼ばれ、「ト辞」として存在した甲骨文字、してその数はいかほどかと言うと、その数凡そ3000種、そのうち解読ができたものは1600である。
                                   
安陽は殷の時代、盤庚(ばんこう)と言う王から始まって、約273年間に及んで殷の都が置かれたところであり、殷の最後の王は有名な暴君「紂王」(ちゅうおう)だが、この王は「ト辞」では「帝辛」(ていしん)と記されている。
この「殷」が王朝として成立したのは、推定だが紀元前1750年頃、「湯」(とう)から始まり、滅ぼされたのは紀元前1027年頃、西北の高地から攻め下ってきた「周」の民族によって滅ぼされた。
それゆえ、こうした甲骨文字は今から3500年前に成立していた文字だと考えられるのである。
                                  
中国では安陽の他に山東省や鄭州などからも殷代前期、若しくはそれ以前の古跡が発見されているが、そこからは何れも文字らしきものは発見されていない。
従って甲骨文字は中国最古の文字であり、これらが発展していくことで形成、安定して行った漢字は、全て甲骨文字にその起源が求められるべきものと判断されるのである。
                                  
ただ、当然のことながら、これら多数の甲骨文字は一時に作られたものではなく、また1人や2人で作られたものでもない。
殷が成立した直後にはおそらく文字は無かったに違いないが、それが国家として安定していく過程で、多くの者達によって集積され、それが文字となって行ったに違いない。
                                   
そしてその文字だが、「文」とは紋様の「紋」と同じ系列の語であり、物の形になぞらえた絵や模様を指していて、「字」は「滋」(じ)、益々増えると同系列の語で、こちらは既存する絵文字を組み合わせて、増やしていくと言う意味がある。
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つまり「文」とは原始的な文字を指し、「字」はそれらを組み合わせていく過程で発生していく二次的文字と言うことができ、これを今の言葉で言うなら、象形文字や指事文字はそれを「文」と言うことができ、会意文字や形声文字は所謂ところの「字」であると言うことができようか・・・。
                                  
漢字はこうした「文」と「字」の組み合わせで、何千万という総体をなしているのである。
後漢の許慎(きょしん)は西暦100年、中国で初めての字典となる「説文解字」(せつもんかいじ)を著わし、漢字を「象形文字」(月・日など)、「指事文字」(上・下など)、「会意文字」(武・信など)、「形声文字」(河・江など)、「転注文字」(令・長など)、「仮借文字」(かしゃく文字・同意の時の当て字など)の6種類に分類したが、これを「六書」(りくしょ)と言う。
                                   
「象形文字」は言わずと知れた簡略化された絵文字であり、「指事文字」とは形として描きにくい一般的な事柄を、抽象的な約束や印(しるし)で表したものと言うことができるが、数字などはまさにこれである。
「会意文字」は基本的に「象形文字」や「指事文字」を組み合わせたもので、許慎が事例に使った「武」や「信」などがそれに相当しているが、ここで注意しなければならないのは、「武」の文字は「弋」(ほこ)を「止」、つまり止める意味で「武」となっているのではなく、許慎によれば「止」を「趾」の原字で「足」の意味で用い、これによると、「弋」を持って勇ましく歩く姿をして「武」としていることを曲解してはならないだろう。
                                   
また「信」についても日本人はこれを自身の気持ちや、その心の有り様のように思っているかも知れないが、実はこれは「人」と「言」であり、まっすぐに通る言葉、即ち「素直に信用できる言行」のことを表していて、心ではなく行動する姿を指していることを忘れてはならないところだと思う。
そして「形声文字」とは「河」のように、片側に発音を表す音符を含み、他方にはそれが帰属する世界を示す偏を添えた形式の文字を指す。
                                   
更に「転注文字」、こちらは許慎の解説によれば、もともと命令を意味する「令」と言う語がやがて命令を出す人、長官の意味にまで転じていって、「長」(おさ)と言う言葉になったケースを指しているが、こうしたことから言えば、この有り方は語義の転化であり、文字形成のありようを示しているとは言えないかも知れない。
同じように「仮借文字」もまた、同音の当て字であることから、こちらも基本的には文字形成と言うよりは、文字の使い方の問題となろうか・・・。
                                  
従ってこうして見ると、「転注文字」と「仮借文字」が本質的に文字の形成や成立に関していると言えないとするなら、漢字は基本的には「象形」「指事」「会意」「形声」の4種であると言え、これをして殷の時代の甲骨文字を振り返るなら、そこには無論数の少なさはあるが、甲骨文字にも「象形」「指事」「会意」「形声」などの文字創造的要素は全て揃っている。
やはりこうした観点からも、漢字の原型は殷の甲骨文字から既に定まっていたものと、看做すことができるのではないだろか・・・。
                                   
また殷に存在した甲骨文字はおよそ3000、実は人間の言語は3000もあれば、それの組み合わせで、殆どのことが表現できるとも言われている。