2018/06/13 05:11

人間が持つ感覚の中で「視覚」が持つ影響力は一番大きい。
だがこの視覚と言う感覚を頼りすぎると、人間はどこかで「現実」を失い、しいては現実社会に「非現実社会」が出現してくることになる。
人間が本当の意味で滅ぶとき、それは戦争による殺戮によってもたらせるものではなく、むしろ平和によってもたらされる。
                                      
安定した平和な社会は人間から本能的な危機感を奪い、それによって本来は生物の生物たる所以である生殖行動がリスクに感じられるようになり、その瞬間から生物や社会は事実上崩壊していく。
更にそうした食べることに困らない豊かな社会が求めるものは「視覚」であり。
実は人間の五感を満足させる中で、一番経費がかかる感覚が「視覚」なのである。
従って平和で豊かな社会ほど、そのコミニケーションが視覚に頼るものになり、視覚は実体験を伴わずに、多くの手間がかかる現実の60%以上、場合によっては現実を超える感覚を脳にもたらしていく。
                                         
それゆえこうした社会の持つ特性は、現実社会と非現実社会が渾然となった社会を生み出すことになり、最終的にはその非現実的な部分に措いて、確実に衰退が訪れるのである。
男女が出会って互いの心を通じ合わせ、なおかつ性交渉を持つのは、実は大変な労力を要し、また子供を育ててそれを一人前にするには、更に大きなエネルギーを必要とする。
                           
だがこの大変な労力が省かれて、性的交渉による快感だけが享受できるとしたら、人間、特にオスは視覚的な部分へと流れやすくなり、これが今日卑猥なDVDが社会に氾濫し、また大量消費される原因である。
またこうした意味から言えば、一切の人間的交渉努力もなく、簡単に性交渉が可能な「風俗」への依存も同じことである。
                                         
古来よりその国家や社会が壊れるとき、それを引き起こすのは間違いなくオスの遺伝子であり、その最も欠落しやすい部分が実は性的交渉なのであり、同時に起こってくるものは、生殖活動を伴わない感覚的快楽、若しくは恋愛、そして同性愛と言うことになるが、これもまた生物的には本能と言うものなのかも知れない。 
                                         
だが視覚による感覚は実態を伴ってはいない、つまりそこには現実には近くても、明確に現実ではない部分が存在するが、それが聴覚であったり、臭覚、触覚、味覚と言うものによって補われて初めて現実となる。
つまり画像で見ている絶世の美女は汗を流してはおらず、その肌の柔らかさなどから感じる「女」の感触と言うものを欠落させている、言わば不完全な感覚であるが、これに感覚が馴らされてくると、実際に汗をかく女が面倒になる、また現実には相互に言葉を交わして、初めて成立する男女の付き合いが面倒になって行くことになる。 
                                         
そして豊かな社会に措ける社会保障の充実だが、これにも盲点があり、人間は老後の扶養を長く子孫に依存してきた歴史を持ち、この感覚は子孫を残す意味を人間が考えられる範囲に限定するなら、一定のウェートを占るに至っているが、これが社会制度である程度の保障が得られることが確定していると、子孫を残す意味が薄く考えられていく。 
                                         
その結果社会的扶養制度が充実した社会ほど、その社会の人口は減少していく傾向を示すが、社会扶養制度を考えるとき、老後だけではなく、どの年代に措いても社会扶養が充実していなければ、ここに老人が若い世代を食い潰していく社会が生まれ、その社会は益々子孫を残せなくなっていく。 
                                         
また視覚は人間の感覚の中で最も影響力が大きいことから、視覚を言語に例えるならそこには断定形態が存在している。
味覚や触覚、嗅覚などが「もしかしたら」や「かも知れない」と言う表現なら、視覚は「である」の要素が強く、この視覚の上に、視覚の次に影響力がある聴覚が加われば、それは「確信」に近いものにまでなっていくが、そこから何が生まれてくるかと言うと、想像力の欠如と、妄想の発達である。 
                                        
あらゆる人間の想像は本来自分が関係する社会、家族、場合によっては国家や自然などからも微妙に干渉を受けて、それによって総合的なものが集約されたものであり、これに対して妄想はエゴイズムの増殖的な面を持っていて、両者は同じではない。
                                        
端的な例で言うなら、男性が女性の延長線上に描く女性には、女性が身に付けている下着までがこの範囲に入ってきて、そうしたことから下着泥棒なら、まだ「バカモノが」の範囲かも知れないが、これが想像と妄想の限界点であり、これを超えていくとストーカーになり、挙句の果てには殺して死体はバラバラに切って捨てると言うことになるが、こうした行為は妄想の暴走と、その想像性の欠如が根底に潜んでいる。 
                                         
視覚的バーチャルな世界では、死がどう言う意味かは分らず、そこにはまた再生されるような非現実的な「死」はあっても、現実に「苦しいだろうな」「辛いだろうな」と言う想像が働かない。
また夜中に一人でノコギリで死体を切っている自分の姿を想像できないからこそ、夜中にノコギリで死体を細かく切って、それを山に捨てることが可能になるのだ。
                                        
視覚的快楽の中にはエゴイズムが存在し、それが増殖されて、個人の中では現実とのギャップが認識できなくなる。
映像の世界の異性は結局のところ、ただの自分の妄想にしか過ぎず、これと現実を混同してしまうと、少しでも自分の思うとおりにならなければ、すぐにこれを排除しようとしていく、また消して次を見ようと言う感覚と同じものが現れて来るが、現実に動き始めたものは後戻りができない。
そこで安易に殺害して、しかも死体はバラバラにして捨てると言った事件が社会に蔓延してくるのであり、こうした点では男女の区別はなくなってきている。
                                        
現実とはその重さを想像できる感覚によって支えられているものであり、現実と想像は対になっていてこそ意味を持つが、そのうち想像と言うものが壊れていくと、そのとき存在した現実もまた崩壊していくものであり、事実今から30年前であれば、死体が切り刻まれて捨てられていたとなれば大事件で、犯人は絶対捕まることになっていて、しかもその殺人には相当な理由が存在しなければならなかったが、現代社会ではこうしたことすら日常茶飯事になり、事件が報道されても大衆はさほど驚かなくなって来てしまっている。 
                                         
ここに存在するものは、少なくとも「死」と言うもの、その尊厳に対するリアリティの稀薄さであり、日本人はその生活の豊かさの中で「死」と言う現実をここまで軽くしてしまったのである。
                                        
そして「死」と「生」は同一のものである。
1日に100人もの人が自殺していく日本社会の背景には、ただ景気が悪いと言うそれだけの理由だけではない、実態のない視覚社会と言う死神が潜んでいることも、心に留めておかなければならないように思う・・・。