2018/06/24 05:58

輪島塗を象徴する「輪島地の粉」(わじま・じのこ)は輪島塗の下地施工時に用いる珪藻土の焼成粉末だが、焼成して粉末にした時かけられる篩(ふるい)の目の粗さに拠って粉末の粒子は分類され、「一辺地」「二辺地」「三辺地」が加工中心粉、これ以外の例えば「四辺地」や「うすで粉」、「惣身粉」(そうみふん)「こく惣粉」は周辺粉に分類される。


まず「こく惣粉」は素地調整と成型加工時に使われる粉だが、この成分はケヤキの椀を曳いたときに出る木粉を弱く燻したもの、或いは木を粉砕して燻蒸したもので、これは輪島地の粉の中には分類されない。


次に「惣身粉」だが、これは素地に寒冷紗(かんれいしゃ)や麻布の布をかけた時できる、素地表面と布の段差を埋める為に使われる粉で、この粉末の精製方法は、例えば一辺地などの地の粉を作るおりに発生する煤が用いられた時期が長い。

つまり厳密には輪島地の粉ではないのだが、こうして煤の成分を用いていた時、その上から下地を施すと「惣身粉」の層からの剥離率が高く、一般的には古くから惣身粉の代用として「こく惣粉」と「うすで粉」や「一辺地粉」を混ぜ合わせたものを使う方式が多く見られた。


「うすで粉」は輪島地の粉の中では一番粒子が大きい粉だが、主に大きな漆器、例えばテーブルや大きなお膳などに用いられ、これと「一辺地」の中間に「鏡粉」(かがみこ)が存在し、後年「鏡粉」と「一辺地」は同じものを指すようになったが、その初期は「鏡粉」と「一辺地」の粒子には大きさに違いが存在していた。


以下「一辺地」から「四辺地」までは粒子の違いであり、数字が増えるごとに粒子は細かくなっていくが、「四辺地」は昭和50年末頃から作られ始めた比較的新しい粉で有り、「三辺地」も昭和40年ころまでは一般的ではなかった。

これらの微細粉末は輪島塗の販売が低迷してくるに連動し、製作する器物が小さくなり、よりクォリティが求められるに従って多用されるに至ったローカル地の粉と言う事が出来る。


近世(江戸時代)、近代(明治時代)の輪島塗の下地はこく惣、惣身、うすで粉、二辺地、或いはうすで粉の代わりに「鏡粉」が用いられ、良くてもこれに「目擦り」と言って砥の粉と漆を混ぜ合わせたものを仕上げ塗りしたものだった。

つまり重点は荒い方の粉に在った訳で、この意味では輪島地の粉の概念の伝統的な部分は「鏡粉」「一辺地」「二辺地」と言う事になるが、これが現在に至ると「うすで粉」はまず使用される事が無くなり、一辺地と「鏡粉」は同じ概念になった。


下地もこく惣や惣身は同じとしても、下手をすれば地の粉は「二辺地」から始まると言うような、細かい粉の方に重点が移ってきていて、粉の荒さも大正6年の「二辺地」と現在の「一辺地」を比較すると、大正6年の「二辺地」の方が現在の「一辺地」より荒い。


昭和の時代までは輪島地の粉の消費はとても大きかった。

その為輪島漆器商工業組合(以下・組合と表記する)は地の粉の生産を認可すると言う形で民間の業者にも地の粉を作る委託を行っていたが、このたった1軒認可されていた地の粉製作業者の篩(ふるい)は組合の篩よりも少し荒いため、この業者の粉を好む職人や親方も多かった。


ちなみに輪島市杉平地内に存在していた、この地の粉業者は平成に入って一部施設が火事に拠って失われた事、また地の粉の消費が決定的に減少した為廃業、以後は輪島漆器組合だけが地の粉の生産を行っているが、その生産量は昭和57年の20分の1にも及んでいない。


僅か漆器の下地材料の粉末だけでも厳密に言えば年代ごと、製作者に拠って微細に違う概念が包括されたものであり、この中で例えば輪島漆芸美術館などは「本物の輪島塗」を判別できるシステムを開発したと言う話をしているが、自称歴史学者の同美術館の館長は以前、輪島塗に抗菌作用が有ると宣伝し、これが石川県工業試験場の検査で認められなかったと言う実績が有る。


実は輪島塗には本物も偽物も存在していない・・・。