「人間の知覚範囲」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/06/28 05:34


サイコロをふって1が出る確率は常に6分の1だが、この確率の分布は均等ではない。

1が連続して3回出るときも、場合に拠っては10回連続して出る事すら有る。


我々が見ている秩序は、実は一番出現する回数が多い、或いはそれを希望するあまり、他を見ないようにして、その回数を錯誤増加させている可能性の高いものと言え、現実の自然の事象はその瞬間を切り取るなら、常に自然に発生しているあらゆる事象分の1の確率に等しい。


そして技術やあらあゆる熟練を要する作業は、こうした自然発生事象の確率をより多く寄せ集めて総合確率を高めたものと言え、例えばサイコロの目も1だけの確率なら6分の1だが、1と3が出る確率を合わせれば3分の1に確率が上昇するのと同じかも知れない。


輪島塗に限らず漆器の素地、ここでは椀を例に取るなら、厳密に言えば木製椀に全く同じものは1つたりとも存在しない。

木目や歪み、ナノメートル単位では直径さへ同じものは一つも無い。

これを全く同じ気象条件の日が無く、刷毛やへらの状態も同じ日が一日も存在しない、それを塗る人間の体調や条件も同じではない状態で塗り、100個有れば100個とも同じように仕上げる作業は、ひとえに確率の寄せ集めに拠る「安定」と言うものだ。


人間が物質の中で知覚できる範囲は、原子や分子レベルにまで及ぶと、仮に1億の確率が存在するなら、その中で知覚できるものはせいぜいが200か300くらいのもので、それもごく表面しか知覚できない。

この上にやはり椀と同じくらいの数の確率を持つ漆を塗る訳だから、2つの混沌に対して増えた秩序、知覚可能な確率はあまりにもはかないものとなる。


物質的には木製の椀に漆を塗る作業は、未来に措ける混沌を倍にする意味を持つのである。

1億分の200が素地の椀、2億分の400が塗りの椀であり、1億と2億の差はとてつもなく大きく、200が400になった効果とは、全体からすると劣化したに等しいものである事を覚えておくと良いだろう。


全体の中で知覚可能な部分が極端に少ない物に、同じように極端に知覚可能部分が少ない漆を塗って成立する、これを支えているものは人間が持つ知覚可能範囲のあまりも狭い状態に有り、こうして解っていないものに解っていないものを塗り、解っていないものが出来ていると言うことの中で、技術者の技術の上達とは、何を指すか・・・。


遠く決して及ばないが、知覚可能範囲を一つでも増やす事以外に方法は無い。

つまりあらゆる例外に挑戦していくことでしか技術の習熟は有り得ないと言う事である。

この素地はだめだ、この道具では塗れない、この気候では無理だ、今日は体調が・・・・、と言う事で有れば確率はどんどん絞られ、やがては針の穴を通すような厳しい条件をつけなければ仕事が出来ないと言う事態は、例えば雨が降った日を不幸だと思い、植物や他の動物が生きている事を見ていないに等しい。


我々技術者は自身の技術をして確定的な事を思うかも知れないが、その実直面しているもの、事象には同じものが一つも無いので有る。

雨が降る日は憂鬱かも知れないが、しかしその水に拠って自身が命を繋いでいる事を忘れてはならない。


我々がそうではないと信じているものも含めて、この世の事象は全て例外で出来ているのである・・・。