「予定運命」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/01 05:56

「イモリ」の主要な器官が形成される時、一般的に両生類は同じ傾向を辿るが、原腸胚から神経胚、尾芽胚という順序を持っている。
特定の器官形成時、その器官に分化していく細胞群が現れるが、この細胞群のことを「原基」と言い、あらゆる器官の形成過程を逆進すると、初期胚の中でどの部分が将来どんな器官を形成するかを知る事ができる。
                                        
そして初期胚の内、どの部分が将来どんな器官へ発達していくかの、こうした分布状況を「原基分布図」と言い、イモリならその初期胚の表面に、生体に無害な色素で色分けする方法、「局所生体染色」で作成する事ができるが、ではこれで言うなら初期胚の過程で、胚のどの部分がどの器官になるかが既に決定されているのかと言うと、必ずしもそうでは無い。
                                         
従ってイモリの初期胚のこうした状況のことを「予定運命」と言う。
つまり何もなければほぼ初期胚の内、どの部分が何の器官になるかが決まっているが、例えばイモリの初期原腸胚を用い、将来神経組織を形成する領域中に表皮予定領域を部分移植し、その逆に将来表皮となる領域に神経組織予定領域を移植したとする場合、これらはそれぞれ元の領域を失い、周囲の予定領域が持つ器官へと変化してしまう。
                                         
結果から言うと、イモリの初期胚はある程度の運命を持ちながら、でもそれは必ずしも決定されていない状況に有り、こうした予定された運命に対して、器官と言う生体にとって基本とも言うべき組織を鑑みるなら、いずれかの時点で「決定」されなければならない時が発生し、その時期は初期胚が分化していくに従って変更できなくなると言う、緩い坂道のような確定方式を持っている。
                                         
また同じイモリの初期胚に付いて、その神経胚から予定表皮領域と予定神経領域を切り取り、細胞をバラバラにして混ぜ合わせ、それを培養した場合、神経領域の細胞は中に潜って神経管を構成し、これを包み込むように表皮予定領域細胞が外側に集まってくる。
このことから初期胚に措いて、ある程度分化が進んだものは、同種細胞をその一つ一つが互いに選別し、集合する能力を持っている。
                                         
実にイモリの初期胚は運命に対する柔軟性を緩い坂道にように有し、決定された運命にはその細胞の1つたりとも誤りを起こさない、決定的な両面性を持っているのである。
                                         
更に常に増殖すること、拡大していくことが生物の成長や進化とは限らない。
器官形成過程に措いては細胞分裂によって増殖して行く面と、その反対に失う事、細胞が死ぬことによって形成される部分が存在する。
例えば人間の手足や、ニワトリの後肢などの指の形成は、細胞の引き算によって形成される。
                                         
これらの器官は、いずれもその初期は平たい細胞の塊として発生してくるが、その発生が進むに従って指と指の間の細胞が死滅し、残った部分によって指の形が作られる。
それゆえ水鳥などの後肢には水かきが存在するが、これは人間やニワトリより水鳥の方が指の細胞死が少なく、多くの細胞が残る為に水かきが出来上がるのである。
                                         
そしてこうした器官発生途中に、決められた時期に決められた細胞が死んで失われることを「プログラム細胞死」、または「アポトーシス」と呼ぶが、このようなプログラム細胞死は脳、骨格、心臓、神経組織などが形成される過程でも見られることであり、オタマジャクシの尻尾が消えて、カエルになる過程もプログラム細胞死である。
                                         
生物はその発生段階に措いて、増殖や拡大と死滅と言う、相反するシステムを使って生体を形成し、このどちらかが欠けても生体形成ができない。
                                         
どうだろうか「予定運命」と「増殖と死滅」が生体形成を左右している有り様に何かを感じないだろうか。
生物はこのような複雑なシステムを持ちながら、そのやっている事は生きているだけである。
                                         
してみるとこれほど無意味な事はないようにも思えるが、それは人間が「生きることを蔑ろ」にしてきたからである。
あれが無ければ生きられない、これを保障しなければ生きられない、安全で豊かで無ければ幸せでは無い、そのようなことを考えようが考えまいが、生物は生きている。
                                         
つまりは人間が大騒ぎしている事の方が本当は意味が無く、今現在何も意識する事なく生きている、この事実こそが意味を持っているのである。