「平城京の公務員」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/06 05:07

さて話は733年、日本、720年には「日本書紀」が成立しているが、この時代の都は平城京・・・奈良市だが、当時の平城京周辺の人口は20万人、現在の奈良市の人口と比較してもその人口の多さが伺われるが・・・、その中で一人の下級官人のなんとも言えない記録が残っているので、今日は彼の生活ぶりを追うことで、いつの世も変わらぬ生活の厳しさを認識しようではないか・・・。


平城京、左京8条1坊に住む、秦常忌寸秋庭(はたつねのいみき・あきにわ)は当時34歳、左目の下に黒子がある男だったが、官位は「少初位上」つまり下から2番目の位で、仕事は中務省図書寮の表装係りをしていた。
表装とは掛け軸を作ったり、本の装丁をしたりする仕事だが、家族は秋庭を含めて男9人、女19人の28人で、女の多い家族だが、当時の「郷戸」と呼ばれる家制度の単位としては標準的な人数とも言え、最もこうした人数が左京8条に全て住んでいたかと言えばそれは疑問で、むしろ何割かは故郷で暮らしていて、秋庭達も農繁期は休暇を取って故郷へ帰っていたのだろう。


官人には5月と8月に15日間の休暇、これを田仮(でんか)と言うが、そうした休暇が許されていて、彼の給料は僅かな月給と、こうした季禄(季節ごとのボーナスみたいなもの)ぐらいしかなく、決して多くはない。
「少初位上」の位ではあしぎぬ1疋、綿1屯、布2端、鍬(くわ)5口が季禄になるが、鍬は故郷にある口分田やその他の田畑を耕す為に使われ、当時の官人の生活が農業とは切り離せない環境にあったことが分かる。


秋庭がそのような薄給に甘んじて官人生活を送っていたのは、理由があった。
官人にはこうした現実の収入の少なさに対して、その他の特権があったからで、まず第1に位階に応じて「免税」の特権があった、秋庭も少なくとも雑徭(ぞうよう・国司が国内の人民を労役に使用する人頭税、年間60日を越えない範囲とされていたが、後に悪用が絶えず、農民達の困窮に拍車をかけた)免除の恩恵を受けていたし、第2に一般農民が容易く手に入れられない品物、例えば鍬などを手に入れることができ、これによって農業生産を上げることができたのである。


また第3にはどんな下級とは言え、位階を持つことは、故郷の農村での社会的地位の向上につながり、秋庭の戸(一族)は一般班田農民に比べればはるかに恵まれた環境だったのである。
しかし彼の戸が負担した租税を見ると、これでも余り楽な暮らしではなかったようだ・・・・この郷戸で男7人、女17人が口分田の受田資格者だったとして、全部で3町6反240歩の口分田が班給(割り当て支給)されているが、いくら租(税)が低いとは言え、凶作の年もあっただろうし、それに兵役、雑徭(秋庭以外の者に対して)、調などの税もあっただろう。


またこの頃の1反当りの米の生産量は恐らく2票「120キログラム」を超えないだろう・・・つまり現在の約4分の1の収量しかない上に、全てが米を生産できるわけではないことを考えると、非常に辛い気持ちになる。


秋庭はその後、東大寺の写経所の表装役になり、その技術はとても素晴らしかった。
749年には陸奥から黄金が献上され、その特授などによって750年、従7位上となるが、この前後には特に欠勤が目立ってくる。
748年には1年で48日間、751年では5月と6月だけ出勤したに過ぎないが、どうも病気を患ったらしく、こうした年代の前後に写経所を去っていくことになったようだ・・・。


奈良時代の政争渦巻く中央政府の中にありながら、それとは何の係わりあいも無い、あたかもそれとは無縁と言わんばかりの暮らしぶり・・・、彼が始めて出仕したのは25歳前後、それから30年間真面目に勤め上げ、ようやくたどり着いたのは従7位上である。
この位は、従4位の父を持つ嫡子が21歳になれば与えられるものであり、従3位以上の貴族であれば、21歳になれば黙っていても従6位以上の位が与えられることに比べれば、いかに儚いものか判るだろう。
貴族や位の高い者には蔭位の制(自動的に位が授けられる)があったが、彼のような下級官人にはこのくらいが上限だったのである。


下級官人は一生下積み生活が強いられた、そしてこれが律令国家、律令制の1つの本質である・・・がしかし秋庭のような下級官人こそが、天平文化の成立をもたらした基礎であったのだと私は思っている。


それにしても秋庭さん・・・あなたのおかげで日本はこんなに豊かになりました。
五賤と呼ばれる身分制度もなくなり、皆平等になりましたし、山上憶良(やまのうえの・おくら)の貧窮問答歌のような悲惨なこともなくなりました・・喜んでやってください・・・。
そして今宵は秋庭さん、あなたと共に酒を酌み交わしたいと思いますが、いかがでしょうか・・・。