「星が山へ帰る」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/11 05:10



さてこの日差しは梅雨の僅かな隙間か、それとも確かな夏の訪れか、いかようにも見える青空の下を、かなりの年配と見受けられる婦人が巾着袋と一緒に花束を持って坂道を行く姿があり、そうした婦人の後姿に幾ばくかの申し訳ない気持ちを感じながら、私の車は坂道を駆け上がる。
 
金沢、卯辰山(うたつやま)丘陵、そのうっそうとした緑の中ほどに「専光寺」(せんこうじ)の墓地が広がっているが、この斜め向かいには金沢が誇る工芸の府「卯辰山工房」があり、また少し上には自然公園が広がっている。
そして金沢のお盆は「新盆」であることから、私は毎年この時期になると、この卯辰山の頂上まで続く坂道を訪れる。
 
「今年も来たか・・・」、その道は、車どうしがかろうじて通り交わすことが出来る程しか幅のない狭い道で、しかも曲がりくねった上に急な坂道なのだが、毎年こうして新盆の時期にここを訪れると、まるで私が生きていたことを喜んでくれるかのように、穏やかにそして静かに迎えてくれる。
 
専光寺の墓地は卯辰山の中ほどを少し過ぎたところに存在してるが、そこまで辿り着くと、この新盆の時期は多くの人たちが墓参りに訪れ、大変な賑わいになっているが、その賑わいも無節操なものではなく、何がしかの秩序や、穏やかな気持ちに満たされたもののようで、多くの人の会話すらそこに静寂を感じさせるものだ。
 
ここを訪れるようになってもう何年になろうか、少なくとも20年近くは経っていそうだが、むかしは子供や妻も一緒で、蒸し暑さから子供が泣き出し、本当に困ったものだった。
だがその子供も一人は家を出て一人暮らしを初め、下の娘も社会人となった今、もはや親と一緒に墓参りなどに同行するはずもなく、また妻はこの暑さで体調を崩し、結局今年は自分一人だけの墓参りになってしまったが、おかしなものだ、これはこれでどこかに充足感がある。
 
この墓地には妻の両親が眠っているのだが、父親を亡くし、母と2人暮らしだった妻は私と知り合い、ある日突然私の家に鞄2つの荷物だけでやってきた。
恐らく父親の影響なのだろう、その激しさに私は戸惑ったが、それでも彼女のその気持ちが嬉しくて、私たちは一緒に暮らし始めた。
 
そして金がなくて結婚式も挙げられないうちに長男が生まれたが、それと同時に妻の母親は体調を崩し、そこから自信を失い自殺を繰り返すようになってしまった。
毎月2回から3回、金沢の警察や病院から電話がかかってきて、その度に私と妻は金沢まで車を走らせたものだった。
そして妻の母は胃癌である事が分り、これでは一人暮らしはさせられないと思った私たち夫婦は、妻の母と同居することにし、私の実家を出てアパートを借り、そこで暮らし始めたが、妻の母はそれから1年、病院への入退院を繰り返した末亡くなった。
 
「もう話せるのはこれが最後です」と告げる医師の言葉に、私は妻の母の手を取り「済みませんでした」と詫びたものだった。
私がいなければ、自分さへいなければ妻は母を捨てて男のもとへ走る事はなかっただろうに、そしたらもしかしたら妻の母も病気にならずに済んだかも知れなかった。
私が妻の母を殺したのかも知れない、そう思っていた。
だが妻の母は私を見てかすかな笑みを浮かべ、そして少しだけ頷いて死んで行った・・・。
 
生きると言うことは残酷なものであり、また醜く、恥ずかしいものだ。
だが人はそうした中にあっても生きていかねばならず、いかように大きな思いであろうと、それは「死」を以って全てが水泡に帰する。
明日はこうしよう、10年後にはこうなろう、それを信じて疑わない人の思いなど虚しいものだ。
明日目が醒めなければそれで全てが終わる。
ゆえに私はいつもこの瞬間が全てだ、この瞬間を何とかしない者には、そもそも未来など有りようが無い、そう思って生きてきた。
 
「若かったな・・・」、そう思う。
妻が心臓の不調を訴え始めたのは、妻の母が亡くなって11年後のことだった。
2度の手術を受けたが、それでも完治することも無く、現在に至っても月に10日は寝込んでしまい、それがいつ来るかはわからない。
初めはこうした状態に私は未来を悲観したが、でも今はもう慣れた。
相変わらず眼前に繰り広げられる事実に感情すら持つ余裕も無く、そこに向かっていかねばならない事は変わらないが、どこかで漠然としたものではあるが、感謝できるようになった。
 
「すみません、今年はあれ(妻)の体調が悪く2人一緒には来れませんでした」
墓石に水を流し、花束を手向け、そして蝋燭を灯して線香を焚いた私は、呟きながら妻の両親が眠る墓前に手を合わせた。
 
程なくこの丘陵から眼下を眺めると、そこには数え切れないほどの大小の墓が並び広がって、そこにはみな花が手向けられ、多くの人々がそこを行きかっていた。
あー・・・、何と人の営みの愚かで偉大なものよ。
明日をも知れぬ我が身でありながら、死後のことまで案じ、また死した後永遠に会うことすら叶わない者に感謝し、それがこうして形を成している。
これほど愚かしくも嬉しく、有り難い「形」が他にあろうか・・・。
 
これから後、何十年、こうしてこの坂道は私を迎えてくれるだろうか、10年か、20年か、30年は無理だろう、もしかしたら来年はもう来れなくなっているかも知れない。
でもそれでも良い、私はきっと感謝する、そうだ、そうに違いない。
 
そもそも出発したのが午後だったこともあり、金沢から家へ帰り着いたのが夕方になってしまった私は、少し遅くなったが、妻と子供に食事を作り、そして自分も素麺を食べたが、昼間の蒸し暑さからか一向に体温が下がらず、仕方ないので缶コーヒーを持って外に出た。
家の縁石に腰をおろし、缶の蓋を開けると中のコーヒーを少しだけ飲んで脇に置き、そして空を眺めた。
 
少し雲はあったが、綺麗な星が沢山見えて、それらはまるで手を伸ばせば届くのではないか、そう思える程だった。
山陰から少しだけ顔を出してきた星は、私が一番好きな星だった。
小さいがその光はとても鋭く、私が小さい頃から自分の星だと決めていた星だ。
だがこの星は天頂付近まで行かない間に、朝を待たずして山へ帰っていく星でもある。
そしてこんなことが私が生まれる遥か以前から存在していて、恐らく私がいなくなっても存在し続けるのだろう。
生きていると言うことは嬉しいことだな、素晴らしいな・・・、そう思う。
 
どうやら昼間の晴天は梅雨の合間ではなく、夏の訪れだったようだ・・・。