2018/07/13 05:45


平安の頃、京都で家を建てるときの基準は、「夏の暑きはいと悪し・・・」とあることから、夏の暑さに対応したものだったようだが、金沢の夏もこれはこれで暑い。

卯辰山(うたつやま)に通じるこうした坂道はとても急で、その周囲にはかなりの樹齢の木がうっそうと生い茂り、風もないので、梅雨もさなかの7月初旬、少し晴れ間でも出ようものなら、裸になって走ってしまいたいほどの暑さである。

できるだけ影を選んで歩くのだが、地面から陽炎が立ち、あゆみを止めて腰を伸ばすと軽いめまいに襲われるが、その脇をなぜか結構な年齢の女性が、まるで少女のような可愛らしいフリルの付いた白いワンピースを着て、しかも黄色い長靴と言ういでたちで、犬を散歩させながら、追い越していく。

これはこれで車の通行も少なく、喧しい蝉の鳴き声と暑さ、また果てしなく続くのではないかと思うこの坂道にあっては、幾ばくかの狂気に在りながら、その景色にそぐわしいもののようでも有る。

訪ねた家はその坂道の中ほどにあるのだが、おかしなものだ・・・。

その昔駆け出しの頃もよくここへは来ていたのだが、その時はなぜかぎっしり実が詰まったような、独特の重さが感じられたこの町も、今はなぜかスカスカな感じがして、少し儚い雰囲気を感じてしまう。

出迎えてくれたのはこの家の奥さんだったが、既に70歳を超えて、ご亭主と2人暮らし、2人いた男の子はそれぞれ東京と茨木で家庭を持っている。

「あらー、久しぶりやわー」

奥さんのこうした言葉は昔のままで、何かいつでも自分が帰って行けるところであるような、勿論そんなことはないのだが、穏やかな安堵感があり、その声につられて不自由な左足を引きずるように、ご亭主が奥から顔を出した。

「おー、上らんか」ご亭主は嬉しそうに言うと、先に立って狭い廊下を居間へ向かって歩き始めた。
「お加減はどうですか・・・」
「まあ、こんなものだろう、命があっただけありがたいと思うとるんや・・・」

廊下の窓からは金沢の市街が、少し青みがかった靄につつまれて見えたが、こうした日は特に蒸し暑い日が多く、何でもう少し早く見舞いに来なかったのかと悔やんだが、まあ、こんなものだろう・・・。

この夫婦は私が仕事で独立した当初からのクライアントだったが、ご亭主は厳しい人で、よく怒られたものだ。

「お前みたいな者が仕事を受ける資格はない、人の迷惑になるだけや」

この言葉は何度言われたことだろう。

その度に徹夜して仕上げるのだが、そうして持って行っても特に褒められることもなく、当然と言う顔だった。
「馬鹿にしやがって・・・」と思ったものだ。

そして私は恨みで、いつか誰にも文句をつけられないようにしてやる、そう思って仕事していた。

よく仕事には自分が出ると言われるが、そうした意味では初期の私の仕事は恨み満載の仕事で、それがどこかで現れていたに違いないが、結果として今日の自分があるのは、こうした厳しい人達のおかげだった。

だが過ぎた日の、厳しかった人たちも年老いて第一線から身を引き、自分がその年代になってみると、全く彼らの領域に達していないことに気がつく。

そして彼らの中で1人、また1人とこの世を去っていく、またはこうして病魔にむしばまれる者が出るにつけ、そこを訪れるが、泣いてすがりつきたくなるのを抑えるのに必死になる。
もう誰も厳しく怒ってくれる人間がいない・・・、このことの不安は怒られることの比ではない。

もう10年近く一緒に仕事をしたことはなかったが、金沢を訪れるたびに立ち寄っていたこの家でも、こうしてご亭主が脳梗塞になってしまっていた。
烈火の如くに怒られた人だが、今は全くの温厚な老人となってしまい、昔は暴力を振るわないだけ、のように怒鳴りつけていた奥さんに、すっかり頼り切りと言った感じだった。

「仕事はどうだ・・・、忙しいか」
「はあ、あまり儲かりませんが、忙しくはやらせてもらっています」
「そうか、そうか・・・、大して儲からなくてもいい、忙しければそれでいい・・」
ご亭主は何度も頷くと、私に玉露をすすめた。

「浅田さん、一緒に御飯を食べていってね」
台所から奥さんの声がして、「いや、お構いなく」と言おうとしたのだが、それより先に奥さんが暖簾(のれん)をまくって顔を出し、その手の上の皿には何やら懐かしいものが乗せられていた。

「これは蓮根(れんこん)ですか・・・」
「今、そうめんでも冷やしますから、一緒に御飯でも食べてってね」

「主人も誰も来ないから、人が来ると嬉しいのよ」

そう言うと奥さんは蓮根を薄く切ったものを私と、ご亭主の前に並べた。

「電話をもらってたから、作っておいたのよ、浅田さんはこれが大好きだったわね」
蓮根だが、ただの蓮根ではない。

これは古い時代の金沢名物の蓮根で、茹でた蓮根を酢漬けにして、蓮根の穴へ小豆羊羹(あずき・ようかん)を流し込み、それを冷やして薄く切ったもの、そう昔、ご亭主から怒られた後で、やはり奥さんがこれを出してくれたことがあって、とても感激したものだった。

酢の味と蓮根の風味がとても良くて、そこに小豆羊羹の甘味が加わり、何とも言えない涼しげな美味しさがあり、とても金沢らしい味がするのである。
昔の、自分がまだほんの駆け出しだったころ、こんな暑い日、険しい顔で仕事をめぐって言い争いをしていた3人の汗だくの顔、そしてやはり蒸し暑かったあの夏の日の味がするのである。

「どう、おいしい・・・」奥さんの問いに、ただ何度も首を振って答えた私だが、もし言葉を発していたら泣いていたかもしれなかった。

結局お昼ご飯まで頂いて、2時間も予定をオーバーしてしまった私は、午後1時過ぎに帰途についたのだが、懐かしさとともに、何か自分がもう絶対戻る事が出来ない所へ来ているような、そんな気がして、急に恐ろしくなった。

が、煮えてしまうようなこの暑さの中、思わず天を仰いだ私は一瞬の眩暈に襲われ、その前をくだんのワンピースに黄色い長靴の夫人が犬と共に、今度は坂道を下りて行くのが見えた・・・・。


※ 本文は2009年7月9日、Yahooブログに掲載した記事を再掲載しています。


※ 羊羹蓮根は既に20年前に金沢でも廃れてしまったお菓子、若しくは付け出しの事を指します。

現在金沢の老舗菓子店で伝統的なお菓子として「蓮根羊羹」が販売されていますが、歴史はそう深いものでは有りません。

蓮根をすりおろして羊羹にしたものですが、これに付随して一般家庭でも蓮根を薄くスライスして羊羹に乗せたものも存在しますが、いずれも古様式の「羊羹蓮根」とは全く異なります。

羊羹蓮根は1本の蓮根の穴に羊羹を流し込んだもので、形は蓮根丸ごとの形で、これをスライスして食べます。

味は酢漬けの蓮根と、羊羹の甘みが混じった味です。

現在は金沢の菓子店、および一般家庭でも作られていません。