「価値反転性の競合」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/14 05:13

人間が秩序と呼ぶもの、また反対に混沌と呼ぶものも、その本質は大きな漠然たる流れのひとつの瞬間を切り取って、それをどう見たかと言うことに過ぎない。
ゆえに人の言う秩序も混沌も、またいかに大きな思いと言えども、全てが基本的には「幻想」「勘違い」でしかなく、人はあらゆるものを見ながら何も見てもはおらず、多くを聞きながら何も聞いてはいない。
多くのことを為したようで、それは何も為してはいない。
 
1990年、事実上この年から日本のバブル経済は崩壊したが、ここで崩壊したものはただ経済だけではない。
人の心や愛が金で買えるか否かと言う話が、古代文明の記録にも残されることを鑑みるなら、人間の文明や秩序、道徳、思想、時には人の命に及んでも、そこに経済が深く浸透している現実は、人間社会に置ける経済の崩壊が、すべての崩壊と同義であると言う側面もまた否定し得ない。

多くの人間の優しさは「金」によって維持され、「金」のない者は優しさを維持することが難しく、これはモラルと言うものに付いても同じである。
そして経済崩壊によってあらゆる秩序やモラルが維持できなくなった日本は、1990年からずっと新しい秩序、価値観を築こうとして来たが、その実混乱は深化し、大きな価値観が全て空洞化、虚無化した結果、より劣悪なるもの、矮小なものをして価値を築こうとするようになっていったが、これは崩壊と同時に、小さな一つからまた価値観を築こうとする人間の有り様として、正しい。

しかしこうした傾向は、大きな価値観から先に信頼が失われ、虚無化していくことから、より小さなもの、惨めなもの、貧相なことをして、そこに価値があると人間を錯誤させ易い社会形態を生み、そこでは大きな正当な価値観が全て否定され、ローカルなもの、小さな情報こそが価値があると錯誤されるようになり、なおかつこうした矮小なこと、惨めなことを競い合う社会が顔を出すことになる。
 
このことを「価値反転性の競合」と言い、何も日本のバブル経済崩壊に限ったことではなく、人類のあらゆる歴史の中で常に起こってきた、人類の習性とも言うべきものであり、近いところで言うならフランス革命、中国、ソビエトの共産党革命も広義では「価値反転性の競合」がもたらしたものと言うことができる。
 
つまり人間の思考形態は大きな価値観が崩れると、そこではより劣悪なもの、矮小なものへと価値観が向かってしまうと言うことで、その影でそれまでの古い価値観である大きな価値観は、こうした劣悪なもの、矮小な価値観をしてしか担保されないようになり、この状況では経済が価値観を担保する社会より遥かに問題解決に時間や手間を要する社会となり、しかもそれはどんどん加速し、その結果、常に直面する問題解決とは遠く離れたところで小さな事に引っかかり、問題解決が為されない社会を生むことになる。
 
これが今の日本の現状であり、本来価値反転性の競合はそう長くは続かないものなのだが、どうも日本人はこうしたことでも極めて見たいのか、昨今の報道、大衆の有り様を鑑みるに、より混乱を煽り、さらに劣化したどうでも良い細事に深く入り込んで行く傾向が見え、大きな原則はすべて無視されているように思える。
 
人の命やその死に優劣など有ろうはずも無く、明日死んでいくものなら、それが事故だろうが原子力発電所だろうが如何なる差が有ろうか。
年間自殺者数は軽く3万人を超え、今も経済的に困窮している者は数知れず、風評被害と言う傲慢な管理社会の幻想を増長させているものは、僅かな放射線量を騒ぐ非当事者である。
 
放出されてしまった放射能が誰の責任か、誰それがこう言った、ああ言ったなど一体なんの意味があろうか。
大切なのはこうした放射能をどう除去するかであり、その方法が見つからないからこそ、細かなどうでも良いところで議論がなされ、その上で半ばヨーロッパ中世の暗黒時代並み、または中国の文化大革命のような、根拠のない盲目的な反原発運動となっているのではないか。
 
一体日本はどうしてしまったのだろうか。
今日も明日も、あさっても安心して暮らせる社会などもはや終わったのであり、これからの日本は増え続ける高齢者を全てケアすることもできなければ、生産は減少し、世界経済からも取り残される最貧国となって行くにも関わらず、この自覚のなさは何だろうか。
 
世界が日本を「平和ぼけ」と言うのは至極最もなことだ。
領土問題、経済、福祉、産業、貿易、すべての分野でこれから先日本は解決が困難どころか、どうしたら良いかすら分からないような時代へと向かいつつある。
安全が保証され、豊かな食事が出来て、汗することもなく暮らせる。
そんな時代がいつまでも続いた歴史など人類史上存在したこともなければ、如何なる生物もそうしたことを保証されていない。
 
また地震や気象災害に全て備えられると思うのは「傲慢」と言うものであり、これを保証する政府も愚かなら、そうしたことに責任を求める大衆やマスコミもまた愚かである。
こうした愚かさが片方で基本的な大きな価値観を言葉だけのものにし虚無化させ、その一方で価値反転性の競合を深化させ、国民はより劣化したものとなっていく。
 
 
あらゆる存在は全て可能性と破壊を同時に包括している。
この世界に真実などと言うものはなく、そこは現実が連続して並んでいく世界であり、しかもその現実ですらその個人の事情や感情と言ったものに過ぎない。
それゆえこの世界で自分の思うことのみが正しい、多くの人が望むからそれが真実だと思うことは許されても、信じてはならなず、これを信じてしまうと、その信じた者によって大きな災いがもたらされることになる。
 
そして多くの人間は、飢えて弱っている猫を見かけると「可哀想に」と頭を撫でても、家に帰ってパンを持ってくることをしないが、ただ頭を撫でられるだけなら、猫はさらに体力を消耗するだけであり、猫にとって救いとなる人間は可哀想にと思ってくれる人間ではなく、黙ってパンを持ってきてくれる人間だけだ・・・。