「お願いしたい事が有るのですが・・・」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/16 07:09

毎週日曜日の朝9時に電話することが決まっていた私は、その日もいつもの公衆電話で5000円分の100円硬貨をポケットに入れてダイヤルを回していた。
この頃はまだ携帯電話と言えば、信じられないかも知れないがアタッシュケース程の大きさがあり、価格は100万円という代物しかなく、とても一般庶民が手にできるものではなかった為現在よりはあちこちに公衆電話があり、東京へ出て間もない私は部屋に電話を引いていなかったことから、遠距離恋愛中の彼女へ電話するときはいつもこうして公衆電話を使っていた。男も女も暫く付き合っていればいろんな悪知恵が働くようになるもので、長電話を注意されていた彼女のために、ホテルに勤務している彼女の両親が絶対出勤している日曜日の午前9時に電話するようになっていたのである。



遠距離恋愛中の2人の電話などたわいないもので、せいぜいが近況報告、そして好きだ愛しているで締めくくられるのだが、電話が情報源の全てと言う状況では僅かな言葉のニュアンス、接続詞の運用のまずさで疑心暗鬼に陥ることも多く、大抵前回電話したとき掘った墓穴を何とかカバーし、また新たな火種を作る作業を繰り返していたものだ。


いつも使っているこの公衆電話がなぜ都合が良かったかと言えば、この電話は狭い路地の中にあって長電話していても後ろからせかされることがなかったからだったが、その日は珍しいことにボックスの外で髪の長い、いかにもキャリアウーマン風の女が私の電話が終わるのを待っている様子だった。


この手の女は大体気が短いことに決まっていたから、暫く電話を続けていれば諦めて他へ行くだろうと思っていた私は気にせず電話を続けたが、女はなかなかいなくならなかった。
さすがにこれでは落ち着かなくなった私は、彼女に外で自分達の電話が終わるのを待っている人がいることを伝え、また後で電話すると言って受話器を戻した。
用意した100円硬貨はまだ半分以上残っていたが、これはこれで嬉しいような少し淋しいような・・・。


「すみませんでした」私はその女に軽く会釈をしてその場を立ち去ろうとした。
だが意外なことに、「お願いしたいことがあるんですけど・・・」と引き止めたのはその女だった。
どうやら女は電話より私に用事があったようだが、勿論私はこの女とは始めて会ったし、会社の関係者とも思えなかった。
年齢は20代後半、もしかしたら30くらいか、グレーの薄手のロングコートはそれなりにセンスの良いものだったし、コートより僅かに濃いグレーの網タイツの足を覆う茶色のブーツも決して安いものではなかった。


「何かご用でしたか」立ち止まった私に女は「すみませんが、ここへ電話して貰えませんか」とメモ用紙に書かれた電話番号を差し出した。
その顔は何か困った様子ではあったが、「電話ならご自分でかけた方がいいのではないですか」と私は答えた。
「それが、私だと切られてしまうんです」
「それはどう言うことですか」
「ここへ電話すると女の人が出ます。そしたら部下だと言ってXXさんはいますかと言って呼び出して欲しいんです」
女は全てが伝えられない苦しさをごまかそうとして微笑んだが、その表情から私は全てが分った。
この女は不倫中だったのだ。
電話すれば既に夫との仲を疑われていることから必ず妻が電話に出て、女からの電話は酷い罵声と共に切られてしまうことになっていたのだろう。


「会社の名前と部所を聞かれたらどうします」
「○○のXXと答えて下さい」
「私の名前は何と名乗ればいいですか」
「それは何でもいいんです」
「失敗しても知りませんよ」
「はい」女はパーと花が咲いたような笑顔になったが、そのことからこの女、こうして人に電話を頼むのは初めてではないことが何となく分ってしまった。

呼び出し音が止まって電話に出たのは女だったが、その声の表情からかなり警戒し、不快になっている様子が伺えた。
「○○会社の○○と申しますが、XXさんをお願いしたいのですが、御在宅でしょうか」
「どう言った御用件ですか」丁重で明るく話した私に対して電話先の女の声は暗く重かった。
「わたくし、XXさんの部所で仕事をさせて頂いております。明日の会議に使う資料のことで少しお伺いしたいことがありましてお電話させて頂きました。お休みのところ恐縮です」
この程度の電話なら仕事でしょっちゅうしている私にとってどうと言うこともない作り話だったが、男からの電話、しかも会社関係の話題だったことから、電話先の女も安心した様子が伺え、「暫くお待ちください、今かわります」と言って奥へ歩いていく音が聞こえた。
暫くして「はいXXです」と言う男の声に電話は切り替わった。
「あなたとどうしても話したいと言う人から頼まれました。これで電話を代わっても大丈夫ですか」
私のこの言葉に依頼人が誰かをすぐ理解したこの男は「はい、ありがとうございます」と答えた。
私は両手を差し出して電話に出たがっている女に受話器を渡し、ボックスから出た。
ガラスの戸が閉まり、その中で女は何度も何度もおじぎしていたが、それに軽く頭を下げて私はこの場を立ち去った。

女が可哀想だった。
見ず知らずの男にこうして頼まなければ好きな男に電話することさえ適わない、それに電話先の女は男の妻なのだろうが、男と女の仲を既に知っているからこそ、こうした事態に陥っているのだ。
もしかしたら妻と離婚して女と結婚するとでも言っているのだろうか、どうして分らないのだろう、妻を恐れて電話さえ制限されている男にそんな覚悟などないことが・・・。
歳下の私相手に「ありがとうございます」と言わなければならない男のこの姿が「愛」か・・・。


次の週から私はこの電話ボックスを使わなくなった。
もしかしたら、と言うよりあの電話ボックスを使っていれば必ずあの女に出会うことになるだろう、そしてまた電話をかけてやればその内親しくなって女と付き合うこともできたかも知れない。
美人だしスタイルや趣味も良さそうで「いい女」だった。
だが私は哀しい女を見るのが辛かった、その弱みに付け込んで親しくなろうと言う姑息さも嫌だったが、それに第一この2人の恋愛を手助けする責任は私が負うべきものではなかった。


女とはこれ以来会うことはなかったが、それにしても私が本名を使って電話しても、それが女からの電話であることが薄々でも察知できる男と、面識すらない男に恋人への電話を依頼する女、2人の電話テクニックは相当なものであり、親の目をかすめて電話している私たちは何かが浅い気がしたものだった。


切れそうな糸を辿ってでも関係を続けたい女、2人の女の情念に何か大切なことを判断できずにいる男、実に恋愛の醍醐味はこうした危うさにあるのかも知れず、こんな絶望的な関係であっても未来はどっちに転ぶか分らないのが人の世と言うものなのだろう。