2018/07/19 06:30

AI,人工頭脳で言うところのフレーム理論、これは「共有の場」を意味するが、例えば正直に生きるとした場合、この正直の範囲は相反した命題までも包括し、限界が無くなる。
正直と言う言葉に限らず、人間の言語や語彙には相反命題が存在していて、常にその場、その時、または相対するものによって同じ言語でも同じ意味を為していない。
 
正直に生きるとした場合でも、それは社会的に正直であることと、人間として正直で有ること、生物として正直で有る事とは同じにならず、社会的正直であれば金に執着する事は決して褒められたことにならないが、「金が欲しい」は人間的には正直な言葉と言え、ここに言語や情報が伝達され、それが理解されると言う経過の中には「共通の限定」が必要になってくる。
 
言語はそれ自体が「縛り」であり、ある種の限定だが、それでも漠然とした価値観は無限に近い範囲を持ち、この中では僅か2人だけの間で為される情報伝達でも、極めて不完全なものにしかならない。
そこで人間の言語には「今どこで話している」かと言う言語の限定が必要になってくるのであり、ここで正直と言う命題を社会的なものに縛った状態、限定した状態を「フレーム」を付ける、若しくはフレームと呼ぶ。
 
だがこのフレームはそれがAIで有ろうが人間で有ろうが決して一致する事は無く、そもそも人間の思考回路、感情などの情操構成は、人間の中に存在しているそれぞれの専門分野の自分が、400から人によっては700程存在していて、それら一つ一つが世界を持ちながら、全体の自分と言う世界を構成し、時間経過や場、その他環境によって常に変化し続ける事から、本質的に「今自分がどこに在るのか」を特定できる瞬間が無く、従ってフレームが出来たとしても、それは常に揺らいでいる。
 
だから人の話や感情はどんな場合でも完全に理解することはできず、仮にフレームと言う共通の場に有ったとしても、その事が次の瞬間には移動していない保証は無い事から、大まかな点ではフレーム付近に多くの自分が集まっていると言う程度のものでしかない。
 
旅行の話をしている時、その場では旅行と言うキーワードが特に意識される事無く「場」に存在し始め、ここでもし政治の話題が出てきたとしても、それは旅行と言うキーワードから飛んで行ったものと言う事ができるが、フレームの重要な部分は複数形に有って、単体、若しくは複数でも相手が存在する為に発生してくる事である。

このことから言語には「理解して貰いたい」と言う意思と、「理解したい」と言う動機が有って、意識せずとも社会が共通に持っている基本フレームに相互が自主的に参加するプロセスが存在する。
しかしこうしたプロセスの本質はそこに事実の正確さや客観的整合性が存在しているから始まるのではなく、この入口は「感情」である。
 
事実と言うものと、人間がそれをどう判断するかは同じでは無い。
アフォーダンス理論(affordance theory)によるところの「環境が生物に提供する価値や情報」は、情報が存在自体とそれを判断する側のどちらに有るかを定義するものだが、赤い花は主観ではない。
ゆえ人間がその花を見て赤いと判断した、その情報は赤い花が提供している情報である。
 
しかし、問題はこの「赤い」と言う色である。
前文にも有るように、それぞれの人間は自身の内に各専門的な分野の400から700程の自分を持ち、それらが複雑に絡み合って自分を形成している。
この400から700程の自分は子供の頃はランダムに絡み有っているが、これが大人になっていくに従って社会と接触することで少しは整理が付くものの、誰かと同じプロセスを辿る確率は皆無である。
 
それゆえ一人として自分以外の人間が同じ赤とは認識できないのであり、ここで赤い色はイメージ補正が為された状態で認識される事から、人間は安定した赤い色を認識しながら、誰一人として正確な赤を認識する者はいないのである。
 
赤い花は正確には太陽光の入射角度で違って見えるはずであり、この点では天気の良いに見る赤い花の赤と、曇った日に見る赤い花の赤は違うはずだが、一人の人間の中では同じ赤に見えるように意識修正が為され、この意味では情報は常に自分の脳によって歪曲されている事になる。
つまり事実は事実として存在しながら、それをどう判断するかは自分が行っていると言う事であり、人間の中では事実は存在できないのである。
 
その上自分が思っている赤と言う色は、時間や場所、環境によっていつも揺らいでいて、一瞬たりとも同じである事が無いにも拘らず、自身の内には絶対的なものとして存在している。
このことから、自分が思う赤い色は絶対に他人に伝えることはできず、カラーチャートを見ればそれで影響されて自分の赤は吹っ飛び、そこに有るのは「大体こんなもの」と言う赤の色なのであり、人間はこうした環境で相互が理解しよう、または理解したと思っている訳である。
 
そしてフレームはこのように不安定で、根拠の無いものだが、それでも赤と言う言葉のフレームにより、細部では異なるものの近似値では赤で有る事から、微妙な勘違いでも大まかな情報を伝達できるのであり、ここでのキーポイントは相手と言うことだ。
 
情報の伝達は言語のみでは伝達できず、人間は基本的に同じ瞬間を持たない事から、その瞬間の全てのアフォーダンス、(物質が発する情報)によってやっと少しはマシな情報になるのであり、ここでは視覚のみならずその質感や言語のニュアンス、微妙な表情やシルエットのアフォーダンスによって、より高い精度の情報伝達が可能となる。
 
つまり人間が本当に理解し合うと言う事は、その人間なり、アフォーダンスに直接会うと言う事に他ならず、現実に相対する存在が有っての話なのである。
緻密な描写で描かれたリンゴの絵が伝える情報は、そのリンゴの全ての情報の4%くらいだろうか、その程度のものだ。
 
パソコンやiphone で見る動画やメールは絵と同じ情報で有り、その本質は「理解して貰いたい」「理解したい」ではなく、自分の中に存在する400から700程の、専門的だが不完全な自分が暴走した状態の情報処理、つまりは大部分が妄想や都合良く補正された情報認識になる。
 
これは物質が持つアフォーダンスに比して非常に危険な理解と言える。