「グラジオラス」・2 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/07/23 07:04

田に水が行き渡ったかを確かめる為、畔(あぜ)を歩いていると、時々1本、2本と細い竹を切った棒が刺さっている事が有り、これは一体何だろうと思っていたが、その答えは意外に早く判明する。


畔の草を刈っていると、その棒の付近で必ず草刈機の歯が石に当たり、カチーンとはじかれるので有る。

7年前に死んだ母が刺した目印だった。

死して尚、子を思うか・・・・、いやそうではあるまい。

母は自分が草刈りをしていて、いつもそこで草刈機の歯が石に当たるので、目印をしただけだろう・・・。


また山に近い田の土手には、毎年3本だけ薄いピンクのグラジオラスが必ず咲き、一面緑の中でそこだけが何故か人の匂い、グラジオラスが好きだった母の面影がするのだが、これもきっと母が余った球根を土手に植えたもので、それは後年自身が命を失う事を思い、何かを痕跡を残したいと願ったものでは無かっただろう。


だがいつかの時、同じ道を通って来る者がそこに親が子を思う気持ち、或いは既に失われた者の面影を見るは、間違いにして正しき事のように思う。

目印をした本人は自身の為に、自分がそれを楽しむ為に為した事を、後年同じ道を通った者がこれを自分に繋げて思う。

この事は「天意」に同じであり、真実の以前の一致で有るのかも知れない。


田んぼの畔に刺さった竹の棒、頼みもしないのに毎年咲く土手のグラジオラス、これらは知る必要のない者に取っては全く意味を為さないが、いつか時が来てそこを通る者には必ず必要となる目印であり、最も無駄を廃した、最も大きな指標と言えるのかも知れない。


そして土手から突き出た大きな石の脇に植えられたグラジオラスを見るに付け、どこかで後進の指導と言う慇懃(いんぎん)な在り様が大袈裟なような気がして、どこかでそれ自体がまことに傲慢な感じがしてしまう。

自身が必要とする事、自身が楽しむ事をして、やがて数少ないながらも自身の後を追う者の指標となれたら、それを指標と思ってくれる者が有るなら、これをして自身との一致、最大の喜びと言えるのではないか、そんな事を思う。


私も竹の棒を刺そう、グラジオラスを植えよう・・・。

でもそれは後進の為ではなく、自分の為に・・・。