2018/07/24 07:02

漆器を製作する過程の中で、例えば素地から塗り、蒔絵などの加飾まで全て個人が手がけることは難しく、よしんばこれを全て個人が行ったとしても完成度は低くくなるか、或いは効率性の問題から時間と経費を膨大に消費し、その個人が手がけたと言う些細な拘りに拠って発生した、非効率に拠る価格の高騰を「付加価値」と称する事は不遜であるように私は思う。


その意味から漆器の生産に措ける効率性は、やはり専門職に拠る分業制が望ましいと考えるが、この専門職と言えども100%ではない。

時にはその事情や時間的制約の中で、不測の事態や妥協が存在する事も出てくる。


そしてこうして前段階の分業工程が次の専門職の手に移った時、次の専門職は前段階の仕事の不備を簡単に見抜く事になるが、多くの場合前段階の専門職は次の専門職が為す肯定の深遠な部分までは理解できない。

例え言葉で理解できても経験の無い者の理解は全体の理解の90%に及んでも、残りの10%が専門職が専門職となる所以だからであり、これは前専門職の仕事を次の専門職が完全に理解できないのもまた同じ事である。


前の専門職の仕事に不備が見つかった場合、その仕事の不備は前の専門職が故意に行った場合も、理解できずに行った場合も、基本的には同じことであり、ここで次の専門職には2種の行動傾向がある。


その一つは前の専門職の不備に構わず、自分の作業だけを為し、結果としてその仕事は前の専門職の不備に影響されて不完全なものとなり、これに拠って前の専門職の不備を咎めると言った性質の事をする者がある。


またその一方で前の専門職の不備を何も言わずにカバーし、最後まで黙っている者も存在する。

そしてこの後者のケースでは、前段階の専門職の不備は、その不備を補修する分、次の専門職の負担となる為、ここではその負担を巡る在り様でも差が出てくるが、分業制の特徴はチーム製作だと言う点を重視するなら、製品の完成度と価格こそが全てであり、ここでは他者の瑕疵(かし)を追求しても製品の完成度は高まらず、価格も非効率的な事になる。


不備を見つけた専門職は不備を見つけて悦に入る事、それに拠って自身の技術的力量を誇ってはならない。

弱き者、貧しい者を比較に使って自身の力量を示すは、愚かな事と思うべきもので、またそこで自信の力量を示したところで、或いはもっと言えば有名になった所で、自信がそれに拠って何がしたいのかの目標の無い過剰な栄誉の希求は、必ずいつか自身の身を滅ぼす。


分業制専門職の最大の栄誉は技術が認められて仕事が増えてくる事をして最大とすべきで、これ以上の、チームの中で突出した栄誉を求めるなら、それは自身が販売や広報の分野にまで進出する事を意味し、これができずに突出する事を望むなら、そのチームを破壊する事にしかならない。


人間誰しも人から良く思われたいし、褒められる事も嬉しいものだ。

だが自身の責任や力以上にこれを求めると、周囲を壊す事になり、その姿は餓鬼と同じになる。

当然作った物も「餓鬼」になる。


皆で良い物を作った、その中に自分も存在した。

結果として良い物が多く売れていけば皆の為になり、その事で自身も安定して暮らしていける上に、どこかではいつかそうした自分の事が、薄く弱くでも人の中に影響を及ぼすことになる。

何か大きな力の中に入っていても、薄く弱くでもそれは自分の力だ・・・。


他人が認めてくれるか否かに拠って自分の力量や技術は変わるものではない。

本当の栄誉は、その栄誉を求めない者を好むのである。