「広島の天気はどうだ・・・」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/08/06 07:19

このまま降伏と言う事態になれば、政府責任者は戦争犯罪人として死刑になるかもしれない・・・いやその前に国民総玉砕を主張する過激分子たちに暗殺されるかも知れない・・・・だがもう良い、どうなっても構わない・・・。
佐藤尚武駐ソビエト大使は溢れる涙と、胸の奥からこみ上げる熱い塊を感じながら、それでも東郷外相からの電報を押し戻す進言電報を起草した。


ポツダム宣言受諾を巡って日本がソビエトに仲介を頼んだ背景は、余りにも身勝手な理屈だった・・・すなわちポツダム宣言を受諾するにしても、日本国内で降伏と言う現実を納得させる方法がない・・・特に陸軍などは戦争継続を主張していて、このまま降伏したとしても、戦闘を平和的に収束させる力、統制が既に政府、軍部でもなかったのである。


また民主主義のイギリス、アメリカに対して共産主義のソビエトは確かに対立関係にあり、そうした意味でアメリカと戦争をしている日本には協力的なのではないか・・・とする日本の思惑は理解できない訳ではないが、7月24日、ソビエトは駐日大使を既に山形県酒田港から船で帰国させている。
ポツダム会談のさなか、こうしたソビエトの動きは、冷静に見れば既に結果が出ていたことを示しているが、それでも僅かな望みに頼らざるを得なかった日本・・・、決定的な意識の欠如はポツダム宣言の意味を理解していなかったことである。


ポツダム宣言は国際関係における明確な意思の表明であり、これに対する答えはイエスかノーであり、交渉も間接的回答も求めてはいないのであり、そこには日本国内の情勢により、降伏の体制を整えさせてくれれば降伏する・・・と言うお優しい配慮など望むべくも無いことだった。


1日の決断の遅れは後悔や懺悔ですむものではない、日本が滅亡する・・・このことを、この時点で切実に理解できたのは、駐ソビエト大使佐藤尚武をおいて他にはいなかっただろう。


8月2日午後3時、原爆攻撃を実行するテニヤン基地の第20航空隊は、8月6日、日本に「完全なる破壊」・・・すなわち原子爆弾第1号を投下する予定命令を受けていたのだった。
第1目標は広島、もし目視による爆撃が気象条件で困難な場合は小倉、長崎の順に目標を変更・・・となっていたが、このときの日本は例年にない寒気の影響を受けていて、梅雨は終わってようやく夏の暑さが訪れ始めていたとは言え、列島西半分の天気は相変わらず、ぐずついたものとなっていた。


テニヤン駐在の第393飛行大隊は、連日B 29を飛ばし日本上空を偵察していたが、広島方面の空は目視攻撃には適さない日が続いていた。
8月5日の朝、気象データは翌日の広島の空は「晴れ」と言う予報をだした・・・、運命の日がやってきたのである。
直径71センチ、全長3メートル、重さ約4トンのウラン型原子爆弾が組み立てられ、原爆投下機に指定された機体番号「44=86292」のB29に搭載され、整備員たちは大きな爆弾にクレヨンで思い思いのコメントを書いた・・・、「健闘を祈る」、「ヒロヒトに不運が訪れるように・・・」・・・・・などである。


機体整備と原爆搭載準備は8月5日午後11時には終り、従軍牧師の祈りの後、出撃前の食事が続いたが、その献立はオートミール、リンゴ、バター、ソーセージ、生卵、パンにコーヒーだった。
8月6日午前1時37分、気象観測用のB29が3機出発、それぞれ広島、小倉、長崎に飛び、上空の状況を後続の原爆搭載機に知らせてきた。
原爆搭載機の乗員はポール・チベッツ大佐以下11人、大佐は搭載機に「エノラ・ゲイ」の愛称を与えていたが、この名前は彼の母親の名前である。
この他に原爆装置に関する科学者4名、原子爆弾を含めて積載重量は65トンに達していたが、この積載重量は通常より7・2トンも重いもので、そのせいもあって「エノラ・ゲイ」は滑走開始から予想外に浮力がつかず、滑走路の先端付近でやっと離陸する・・・、8月6日午前2時45分のことだった。


エノラ・ゲイは硫黄島上空で夜明けを迎え、午前7時25分、四国の南東付近に到着・・・、その時先行して広島上空を観測していたB29「ストレート・フラッシュ」からモールス符暗号電文を受信した。
Y2、Q2、B2、C1・・・下の層の雲量2、中層の雲量1もしくは3、上層の雲量1もしくは3、第1攻撃目標爆撃可能・・。
「エノラ・ゲイ」は上昇を開始、午前8時38分、高度9970メートルにまで達すると水平飛行に移り、午前9時15分に第1目標の広島に原爆を投下する計画だったが、日本時間では8月6日午前8時15分のことだった・・・。


この日は月曜日、しかもこの時間は出勤時間でもあっただろう・・・、街には仕事に出かける人達が行き来し、家では主婦が洗濯、朝ごはんの後片付けをしていたに違いない、学校では元気な子供たちの声も響いていただろう。


8月6日午前7時9分、広島県北部に突然サイレンがなり響く・・・、大型機3機が豊後水道、九州、国東半島を北上してきたからだが、目標機はすぐに南下し始めたのでこの警報は午前7時31分に解除、3機の内1機は広島上空を横切って姿を消していった。
このB29は先行していた気象観測機だが、勿論そうしたことは日本側には分からない。
当時の広島市の人口は312000人、総戸数76000戸・・・、警報が解除されると広島市の街には会社、工場、学校へ出勤する人、疎開作業隊も作業を始め、編制中の本土決戦部隊に入隊しようとする者などが、いっせいに動き出していた。


「エノラ・ゲイ」は科学データ観測機と写真撮影機を後方に従え、広島市に接近、午前8時15分30秒、ウラン型原子爆弾を投下した。
広島では、原爆搭載機の接近には全く気づかず、上空に爆音が聞こえ、B29の姿が見えたときには全市が廃墟と化していた。
そして広島市民が最後に見たのは激しい閃光で、その後発生してきた強烈な爆風や空気ショック、赤い火焔を見た者は死を免れた者だけだ・・・。


15000戸の家が一瞬にして吹き飛ばされ、街は焼け焦げた死体で覆われ、その殆どが全裸体になっていて、男女の区別さえつかず、僅かに残る靴で軍人か民間人かを判別できただけだった。
激しい爆風に続いて発生した火災は、僅かに生き残った者にまで更に追い討ちをかけ、約57000戸の家を焼いた火焔地獄は死者の数をさらに増やした。
広島市の被害は市内の60%、約44平方キロメートルが廃墟と化し、死者行方不明者20万人、重軽傷者31000人と推定されている。


そしてこうした事態にもかかわらず、日本政府が状況を把握できたのは8月7日、それも原子爆弾に関する声明を出したトルーマン大統領を伝えた、サンフランシスコ放送のニュースで、始めて事態の深刻さを理解したのだった。


戦後アメリカは戦争終結への道は原爆投下以外になかったことを力説、またポツダム宣言に対して日本が取った態度が「無視」だったことをその理由としているが、日本に対する原爆の投下・・・その効果が絶大であることを知ったのは事実だ、そのことは戦後、戦勝国が先を争って核開発を行って来たことでも明白であり、いかなる言葉を持ってしても、その後ろに隠れた思惑を覆い隠すことはできなかった。


確かに核兵器は「神の力」かも知れない・・・・が、それを使ったときはどうなるか、神の如くにまるで虫けらのように人の手足をもぎ取り、ゴミのように焼くことの恐ろしさ、同じ肉体を持ち同じように心を持ったものを、これほどまでに容易く殺戮することの恐ろしさ・・・神が持つ力は絶大なら、その責任もまた無限の責任があることを我々は憶えておくべきだろう。


最後に核兵器が使われてから既に70年以上の歳月が流れた・・・その本当の悲惨さを知るものは年々少なくなってきている。
日本がどう言うところから今日までを立ち上がってきたのか、また「神の力」が使われた結果がどうなったか・・・
8月6日に際して、今一度思いをめぐらせて頂ければと思います。


(この記事は2009年4月29日、「神の力」の表題で他サイトに記載したものだが、広島に原爆が投下された8月6日と言う日の資料として本日当サイトでも記事とさせて頂いた)