「東条英機」第一章 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/08/11 19:47

「毒をもって毒を制すだね・・・」拝謁した木戸幸一内大臣に昭和天皇裕仁は頷くようにして同意を求めたが、この時木戸幸一にはどれほどの覚悟があっただろうか、戦争が回避できなければいかなる事態が待っていたか理解していただろうか、おそらく殆ど分かっていまい、私は太平洋戦争を考えるとき、木戸ばかりを責められないことは理解しつつも、なぜかこの木戸のそつのなさがどうしても許せない。


もともと昭和天皇は戦争にはきわめて強い不快感を示していて、御前会議でも珍しく語気を荒くしたり、本来発言しないことが慣例の席で発言をしたりと言うことがあったが、これは迫り来る戦争の足音に対する危機感からであった。
方や軍部はどうかと言うと、戦力は十分にある、「勝てる」、アメリカのおかげで経済的にも、物資の面でも不都合な状態にある今こそ、「思い知らせてくれん」がその全体を統一する意思であり、こうした状態に開戦か非戦かの判断がつけられなかった近衛文麿内閣総理大臣は、日米戦争開戦を強く主張する東条英機陸軍大臣の「もはや交渉の時期は終わった」との言に、万策尽き総理大臣を辞任する。


そしてこの近衛内閣の後継者には一時皇族の東久邇宮を・・・、と言う話も出るのだが、開戦時の総理の責任を考えるとこうした案は実現に乏しく、結局強固に開戦を主張する陸軍、その代表の東条を総理とし、東条の力で陸軍の開戦論を何とかしよう・・が木戸幸一の考えだったが、それで天皇に東条内閣を奏上し、その答えが冒頭の天皇の言葉である。


こうして1941年(昭和16年)10月18日、東条内閣が誕生したが、第二次世界大戦では全体主義(ファッショ)の台頭がその根底にあり、どうしても資源の少ない国、経済力の無い国は独裁政権、独裁政治の道を辿っていかざるを得なかったが、ナチスのヒトラーの病み具合、イタリアのムッソリーニの凶暴性を鑑みるに、同じ枢軸国の独裁者とされた東条英機には、どうもそこに並外れた「狂気」が感じられない。


余りにも普通の人物なのである。
東条が総理大臣になったこの時点で、では戦争が避けられたかと言うと、これは誰がやっても難しかっただろう。
1940年、すでにドイツに降伏していたフランスの植民地、インドシナ北部に日本軍は侵攻、1941年には南部仏印に進駐していて、この段階でもはや事実上アメリカとの戦争は始まっていたようなものだったが、天皇の篤意で内閣は幾度も日米交渉を試みるも、実際は日本軍の侵攻は進む一方の現実において、アメリカはアメリカにある日本資産の凍結、石油の対日輸出の禁止など、経済封鎖を断行していたのである。


東条が内閣を組閣したとき、天皇はあらためて東条に、天皇の意向が戦争回避にあり、日米交渉を進めるように・・・と告げるのだが、生真面目な東条はこの言葉に、何とか戦争回避、日米交渉の継続に努めるも、陸軍内部の声は「開戦」以外に無く、総理になる前は激しく開戦を唱えていて、総理になった途端戦争回避とはどう言うことか・・・と東条に対する批判が続出する。
こうした意味では激しく開戦を唱えながらも、天皇には深い尊敬の意を持っていた東条の総理大臣起用は、確かに功を奏したかに見えた。


しかし東条と言う人物は軍の法規集を丸暗記するほどの、実直さ、趣味も無ければ酒や女に対しても清廉潔白の男であり、官僚を地で行くような実務主義者である。
またこうした官僚志向の特徴として権威への弱さ、そして正規の手続きを得て意思表示された多数決への盲目的信仰があり、そのため軍と言う組織内部で大方の意見が「開戦」にあれば、それを上司である天皇に報告するのみであり、それに対して天皇は反対できなかった。


その理由は大日本帝国憲法にあり、天皇の地位は「統治権総攬者」ではあるが、現実には天皇は政治責任を負わないので、最高権力者ではなく、最高権威者にとどまる。
しかし権力は行使しなくても、天皇の名と意思は最高の権威を添付することから、よほど明確な政府または軍の責任行為が無ければ、天皇自身の意見は控えなければならない・・・。
つまり正式な手続きを踏んだものであれば、それに対して天皇は反対ができなかったのである。


そしてこのときアメリカはどうだったかと言うと、日本が太平洋へ進出してくることは早い段階から分かっていた、またこの時点ではドイツはアメリカの挑発に乗らず、従ってアメリカの対ドイツ参戦工作が進んでいなかったことから、ドイツに対して宣戦布告する大儀を日米戦争に求めていた。つまり、ドイツと同盟関係にある日本と戦争状態になれば、念願のドイツ打倒に移れるとの判断をしていたが、アメリカ陸軍は10月6日の時点でフィリピンの防備がまだ終わっておらず、3ヶ月の交渉引き延ばしをハル国務長官に求めていた。


これに対してハル国務長官も、この要請に沿って交渉引き延ばしをはかっていたが、11月22日に出した案は中国、オーストラリア、オランダ各国の反対にあって、結局11月26日、三国同盟の破棄、満州国否認まで要求した「ハル・ノート」を日本に提示したが、当時中国はともかくとして、国際社会は満州国を黙認しようとする傾向が強まっていただけに、この「ハル・ノート」は日本にとって全面屈服か、開戦かの最後通牒に等しく、これはハル長官も承知していた。


スターク海軍作戦部長は、太平艦隊洋司令長官、アジア艦隊指令長官に11月27日にこう打電している。
「本電文は、戦争警告である。対日交渉はすでに終わった、日本側の攻撃は数日内に予期される・・・・」


東条以下、天皇のご意思にお答えしようと努力していた者たちにとって、この「ハル・ノート」は戦争だ・・・とアメリカが言っているに等しかっただろうが、ハル長官にわずかな望みを抱いていた日本の外務省の想い、天皇の望みなどは、すでに開戦のはるか以前からアメリカによって引き裂かれていたのである。


さて第1章はここまでだが、最後に東条がその存命中、ただ1度だけ実際に作戦を指揮したことがあり、今夜はそのエピソードを紹介して終わりにしよう。


シナ事変が起こると、関東軍はただちに北支に増援部隊を派遣したが、このとき関東軍司令官が不在だったために、参謀長の東条がチャハル兵団4個旅団を指揮することになり、このことから同旅団は「東条兵団」と呼ばれたが、この「東条兵団」が北支に進駐して間も無く、突然天候が変わり、9月中旬と言うに、積雪に見舞われたが、まだ残暑シーズンだから将兵は夏服のままだった。


参謀が対策を思案している間に、東条参謀長は「何でも良いから冬服を調達せよ」と言って周辺の部落から綿服、下着を買い集めさせた。
そろった制服が本国から送られてくるのを待つ非合理より、格好は構わずまず寒さを防ぐことを考える東条、彼はまた兵隊の食事にも気を配り、必ず一般兵と同じ食事を用意させた。
急激な進軍のため食料補給部隊が間に合わない・・・、現地調達の食料は粟(あわ)が精一杯のとき、幕僚や当番が努力して、何とか指揮官の東条には米の飯をと思い用意しても、東条は承知するはずも無く、少しでも変わった料理が出ようものならジロッと副官をにらんで問いただす。
「これは兵と同じものか・・・」
これに対して「いや実は・・・」などと言おうものなら「下げろ、兵と同じ食事を持って来い」と激怒するのだった・・・


また軍紀も厳正で、特に女子供に対する暴行には容赦が無かった・・・、軍法会議にかけて厳罰に処したため、中国市民も「東条兵団」には好意的だったが、東条はまた、有名な大同郊外の石仏の保護にも特別の配慮をしていた。 


                                                   (第2章に続く)