「東条英機」第三章 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/08/13 06:51

禿頭、口ひげ、ロイド眼鏡に小柄な東条の声は甲高く、まじめ一筋、法に照らし合わせて一切の妥協が無いその有り様は、ともすれば人に冷たい印象を与え、多分こうした人間と言うものは余り人気が無いものだが、不思議なことに東条は人情家でもあり、ずっと作戦現場よりは軍務、事務職畑を歩んできた割にはその統制力には定評があった。


少年時代の東条は「けんか東条」と呼ばれるほどの「乱暴者」だったが、東京陸軍地方幼年学校2年のとき、級友数人に「生意気だ」と言われ、袋叩きにあった。
どうもこれ以来東条は一転してくそ真面目な勉強家になったようで、東条の勤勉ぶりは日本陸軍史上にも類例が無いほどになっていく・・・、結婚してからも「俺は頭が悪いからね、勉強しなければ偉くなれない」と言って毎晩勉強していた。


東条の知人友人に対する挨拶は、まず「まじめにやってるか」であり、何か大切だと思うことがあれば、すぐに胸ポケットから手帳を出して書き込むのが癖だった。
歩兵第一連隊長時代には部下全員、それも一兵卒に至るまでその氏名を暗記していたと言われ、独特の甲高い声では難しかったのか「号令」を、一人ひそかに海岸や松林で練習していることもあった。


賭け事、将棋、トランプ、釣り、マージャン、酒、女、東条の身辺にはこうしたものがまったく出てこない。
およそ趣味と呼べるものが1つも無く、映画や演劇、漫才などでも笑ったことが無いと言う東条は、ひたすら軍務が趣味だったと言えようか、それもただ唯過ちの無いように気を配るのだ。


甥の山田玉哉少佐は東条のことをこう証言している。
それによると、東条は夫人と一緒に散歩すらしたことが無く、山田少佐の知る限りでは長い年月の間で、ただ一度だけ子供をつれて歌舞伎見物をしたことがあり、おそらくこれが東条の死に至るまでの生涯のうちで、唯一遊びに費やした時間だろう・・・と言うのである。


また東条は女性関係については厳格で、潔癖すぎるほどだったらしく、この山田少佐が東条の妹、つまりおばの家を訪ねたとき、あいにく不在だったが、幼いころから慣れ親しんだ気安さからあがり込み、女中にビールとうな丼をとらせて、おばの帰宅を待ったことがあった。
そのとき少佐は退屈しのぎに女中と話しながら、ちょっとだけ手を握り、「だんだん、きれいになってきた」などとお世辞を言ったのだが、その夜東条からお呼び出しがかかる・・・、山田少佐が東条の家の玄関を開けた瞬間だった、奥からスタスタと出てきた東条は「このバカもの!」と山田少佐を張り飛ばした。


おそらく女中からおばへ、そして東条の耳に入ったのだろうが、「およそ妻以外の女性に接したり、ましてや手を握るなど、大日本帝国軍人の風上にも置けぬ」、東条はこのとき烈火の如くに怒鳴りつけたらしい。


こうした傾向は何も女性問題だけではなく、東条と言う男はその処分を実に厳しく断行している。
ことに2・26事件では陸軍内部の「皇道派」がその首謀者だったこともあってか、同じ陸軍で皇道派とは対立している、統制派に属していた東条は、反乱軍の同情者や市民までいっせいに検挙させ、その調査は入念を極め、検挙者は2000人を越えた。
だがその迅速かつ大量検挙により、関東軍内部の動揺は未然に防がれ、東条の辣腕に対する評価は一挙に高まっていくのである。


東条が本当の意味で独裁者となったのは昭和19年2月21日のことだったが、これは「統帥権」に関わる問題だった。
大日本帝国憲法第11条の規定には、天皇が陸海軍を統帥す・・・とあり、これに基づき軍事行動は陸海軍の管轄だが、統帥事項、つまり作戦や用兵は天皇に直属する参謀総長、軍令部総長が統括するシステムを言い、こうしたシステムはこの時代の殆どの国が同じ仕組みを持っていたが、アメリカでは大統領が、ドイツもヒトラーが、ソビエトではスターリンが、軍政とこの統帥権を軍最高司令官として調和させていた。


しかし日本では行政大権と統帥大権を、責任の無い天皇が保有してるため、総合的な軍事作戦が難しい状態だった。
東条は真珠湾攻撃以来連戦連敗の戦局を打破するために、この統帥権をも自身に集中させようとして画策、これに成功するも戦局は一向に好転しないばかりか、ますます絶望的な状況になっていく。


そしてサイパン島の陥落が決定的となった頃、もう東条では無理だ・・・が政府、陸海軍でもささやかれ始め、東条内閣の倒閣運動が始まっていく。
昭和19年7月18日、内閣改造で急場をしのごうとした東条は、岸国務大臣の辞職拒否に合い、これでは重臣を閣僚に入れて内閣改造とする計画が実行できず、木戸内大臣に総辞職を決意した旨を伝えた。
そのときの心境を木戸はこう語っている。
「東条内閣については、もはやこれまでと言う思いと、しかしこうなってから東条以外の誰が戦争を指揮するのか、と言う相反する2つの思いがあった」・・・、つまり確かに東条は限界だが、ではこの後誰がこの責任を・・・が暗に伺えるのである。


太平洋戦争はある意味、日本が日本の本当の姿を知る戦争でもあった。
身分不相応に膨らんだ幻想で戦争を始めてみたものの、次第にこの戦争は戦争の終結点を失い、泥沼となり、全世界を敵に回した戦争ではこれを調停してくれる存在もなかった。
また大国がいかなることをして大国たるゆえんかを知らず、アメリカが持つ豊かな資源、その工業力、経済力を甘く見たうえ、それを精神力、気概だけで何とかなるかもしれない・・・と言う神頼みのような戦争を継続し、結局自国では戦争を終結させられず、敵国によって始めて戦争終結の機会を得られたのである。


東条内閣総辞職は、海外はもちろん国内でも極秘扱いになった。
時にこのことをアメリカが知ればアメリカ軍の士気は大いに高まるだろうし、国内的にもサイパン島陥落の公表を控えていたため、混乱を避けるためだったが、先の木戸の予感は的中し、この後新しい内閣の指名について、重臣会議でも次の首相を決めかね、消極的排除方式で、小磯国昭を次の首相とすることにしたのである。


小磯はこの大任が下った直後、同じ官邸にいた東条を訪ねてこう言う。
「戦争を始めた輔弼者(首相)が、その終結まで責任を負うべきではないか」・・・、いかにも小粒な話ではあるが、これに対して東条の答えはこうだ、「それは私のせいではない、岸のような閣内にいた者までが結託して私を追い落としたのだ」・・・と。

その国が終焉を迎えるときはかくも寂しい権力者たちの話となるのである。