2018/08/20 05:48

人はそれぞれ大きな欠点がある。その第一の欠点は「おごり高ぶる」ことであるが、このことについては仏典の中でも、他の書物でも同じように注意を与えているが、儒教の書に「貧乏な暮らしをしていても、おべっかを使ったり媚へつらいして、人の気持ちに取り入ろうとするような真似は、決してしない清らかな心の持ち主はあるが、お金や者をたくさん持っていておごり高ぶらない者はいない・・・」とある。


これはお金やものをたくさん所有することを制御し、おごり高ぶる心が起こってこないよう注意し、配慮せよと言うことだ。
自分は身分も卑しく貧しい人間だが、身分の高い人、良い家の生まれの人には決して負けまい、劣るまいと思う、人に勝とう、人より優れようと思うのもまた、おごり高ぶりの甚だしきものである・・・がこれはまだ制御がしやすい。


豊かな財宝に恵まれ、そのような財宝を集めることのできる力、徳分を持った人もいるが、このような人には親戚縁者や一門の関係者などが取り巻き、人もまたそれを許している・・・それをいいことにおごり高ぶるから、側にいる賤しく貧しい人達はこれを見て、きっと羨ましく思い、わが身の在りようを哀しみ不満に思うだろう。
このような人達の心の痛みに対して、富や力のある者は一体どのように気を配ったらよいか・・・、おごれる人には忠告や助言をするのが難しく、仮にそうしたとしても彼らが身を慎み、控えめな態度を取るようなことなど、到底望むべくもない。


また思い上がる気持ちなど少しも無いのだけれど、勝手気儘に振舞えば、傍らにいる貧しい人達は、それを羨み迷惑に思うだろう・・・このところに十分配慮して誤らないようにすることを、「おごりを抑え、高ぶりを控える」と言うのである。
自分の富んでいることに無責任であり、貧しい人が見て羨望したり妬んだり、不平不満を抱いたりする心情のあり方に無神経だったり、これを無視するような粗野な心を「思い上がり」の心と言うのである。


沢山のことを知っている・・・そのことをして人に勝ったと思っている・・・いや勝とうと思う・・・だがそれがいかほどのことか・・・、自分が人より多くのこと知っているからと言って、決してそのことをして誇りに感じ、思いあがってはならない。
自分より劣った人の不都合や間違いを言い、あるいは先輩や同僚たちの過ちを知って、これを悪し様に言い、罵り非難するのは思い上がりも甚だしい行為だ・・・。


昔から物事の真実を心得た人の前では負けても良いが、ものの理をわきまえぬ愚かな人や、その人がいる前で勝ってはならないと言われている。
自分が詳しく知っていることを他人が悪く理解して受け取ったとしても、その人の過ちを言って非難すれば、それはまた同時に自分が間違いを犯すことになる。
古人や先輩達の悪口を言わず、またものを知らぬ愚かな人たちの心を傷つけたり、妬みや不満の気持ちを起こさせるような場では、よくよく考えて発言に注意し、十分に心を配らねばならない。


人は他の悲運を見て内心に安堵し、他の幸運をうらやんで内に妬みの想いをいだく・・・、世に生きるとき、人は必ず他との比較において自身の位置を定め、幸も不幸も多くはそのような意識や構造の中ではかられる。
人の一生は、言うならば自己充足のための果てしない旅である・・・、それは「もの欲しさ」の旅、そしてそれはいつも他との比較においてである。


ここに人の「喘ぎ」があり、人は「喘ぎ」において生きることの喜びを知り、哀しさを知る、喜びも哀しみもこの「喘ぎ」の一様に過ぎない。
しかも人は「喜び」をうる為に喘ぎ、「哀しみ」そのものにおいても喘ぐ、あるときは「喘ぎ」それ自身が力となって「生」を支えることもある。
恥じらいを忘れ慎むを捨て、声高に自己を主張することは、いつの世にも言わば時代の正義として行われてきたに違いないが、しかし己を省みることなしに、無闇に叫ばれる自己主張は、そのまま根源的な人間喪失の主張となり、他との関係を破壊する契機となる。


自己主張にはどこかに「もの欲しさ」が付いてまわり、人の営みには必ず心に願い求めるものがある。
「謙虚さ」とは己と言うものへの限りなき反省と、自己存在の事実についての誤りなき「自覚」をその主としなければ、単に他に対する儀礼の一様式でしかない、固定化し儀礼化した謙虚さは、自己の醜悪さを隠蔽する為の一種の演技とも言えるだろう。


謙虚さの底には、人間的な痛みの共感があり、慎ましさの奥には人間の「さが」の本質的な虚構に直接する魂の共振がある、いたわりや思いやり・・・それを喪失したとき、その行為は傲慢な人間そのもの、凶器となって人の心を傷つけるに違いない。