「共存」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/08/24 05:40

2008年9月25日、1度絶滅した朱鷺(とき)がついに日本の大空を舞った。
関係者は長年の苦労に涙を流して感激し、多くの見物人もこれを喜んで眺めた。
ニッポニア・ニッポン、学名でも日本を代表するこの鳥は、昭和30年の時点で数羽しか残っておらず、それも昭和50年代には絶滅したとされていたが、日本の空にもう一度朱鷺を・・・と願う多くの人達、中国政府の協力もあって、ようやく中国の朱鷺を親にした孵化に成功、地道な飼育と自然環境で餌を取れるよう訓練までして、選ばれた10羽がこの日新潟県の大空に放たれた。

しかし現地で朱鷺が放たれた時点で1羽が既に行方不明、同じ年の12月16日には山でメスの1羽がタヌキなどに襲われて捕食された残骸で見つかった。


思うに、人間と言うのは何と残酷で傲慢な生き物なのだろう。
1度自然の状態で滅んでしまった生物を、もう一度空に舞う姿を見たいと言う1部の人間の意志によって無理やり復活させ、それを飛ばして喜ぶ、このありようは何なのか。
自分が見たいと言うだけで、自然と言う摂理がなくしてしまったものを蘇らせる、このことがいかに危険なことなのかを関係者や、のんきに空を眺めた人達は考えたことがあるのだろうか。
朱鷺は昔から農家にとってはサギと同じように害鳥だった。
苗を植えた田に入って餌を取るため、苗が踏まれ、そこだけ米が取れなくなるのだが、こうしたことを言う人間が日本には1人もいないのが不思議である。


日本野鳥の会と農家は天敵同士のようなもので、片方はサギの巣を保護しようと監視までして、片方は何としても巣を落として、サギの数を減らさなければと必死の攻防である。
またカモなども、実った米をあぜ道に沿って食い荒らすため、農家はその巣を見つけたらすぐに卵は持ち帰り、ゆで卵にする有様で、家の父親などは野鳥の会と聞いただけで、「帰れ」の一言だった・・・。


自然と言うのは2つの面がある。
一つは住んでいる者の自然、そうしてもう一つは見る者の自然だが、住んでいる者の自然とは生活に密着していて、そこには大局的な生物体系や、景観、あるものを守ろうとする概念が無い。
片方、見る側の自然は、大局的な生物体系や保護の概念があっても、そこに暮らす人達のことは考えられていない。
近年こうした実体が無視されて、地域住民の暮らしに不都合な問題が発生することから「世界遺産」の指定を受けることを躊躇する地域があるのはそのためだ。


日本と言う国は不思議な国である。
全ての地方自治体が、当地の産業は「観光」がメインになっていて、「観光」をスローガンにみんな協力させられているが、その実そこの地域で観光産業などほんの1部なのであり、では観光産業が他の産業のために何かすることが有るかと言えば、何も無いのである。
日本の全地域がうちは観光で・・・と言っていてどうしてこれが成立すると思うのかそれが分からない。
コインばくちで、みんなが表に賭けているのと同じなのだ。


朱鷺を巡っては北陸の各県がこの次の放鳥場所となることを環境庁に陳情しているが、観光業者はそれで良いだろう、また多くの関係ない者も賛成だろう、だが直接被害が出る可能性のある農家は、苦い顔で賛成している者もいることを知って欲しい。


数年前から家の田んぼの用水付近に2匹のサンショウウオがいて、多分オスとメスだとおもうのだが、年々大きくなってきているが、これは特別天然○○物の○○サンショウウオではないかと思う。
だが、私はこの話を家の者には話したが、一切口外しないように口止めしている。
もしこれが発覚すれば、その付近は保護地域になり、人間が手をだせなくなり、毎日のように見物客が来て・・・になることは間違いなく、その結果それまであった綺麗な環境は荒れて、最後はサンショウウオが住めなくなるか、死んでしまうかどちらかになるのは、目に見えて分かっているからである。


このサンショウウオは私が田んぼを作っている環境で、少なくとも5年以上は暮らし、この環境に適合している。
即ち私とサンショウウオは「共存」しているのだ。