「戦争と平和」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/08/25 04:58

平和と言う言葉は戦争と言う状態に対して、その対語として存在するもので、人間はこれを明確に概念として頭の中に描くことは出来ず、これをして言うなら戦争と言う現実は存在しても、平和と言う現実は戦争ではない状態としか表現できない。
英語のピース(peaca)、フランス語のぺ(paix)は、ラテン語のパックス(pax)をその語源としていて、それは協定の締結(pactum)による戦争の不在(absentia belli)を意味している。
 
従って平和と言う言葉の意味、それがどんな状態であるかと言うと、戦争状態の終結が国家間の協定によって実現した、またはしている状態を指している。
即ちここで平和を考えるなら、戦争状態の合間の状態を指しているのであって、そもそも戦争と言う概念や現実がなければ、平和と言う概念もまた成立しないのである。
これが欧米の平和に対する基本的な概念だ。
 
だが例えばインドではどうか、インドの「アヒンサ」(ahimsa)は包括する、包容力、または不殺生をその概念に内在させているし、日本語の平和もまた中世以降の仏教史観をその内に包括しているため、そこには単に戦争がない状態を指すだけではない、漠然とした幸福感も含まれてくるのである。
それ故、欧米の平和の概念は戦争と言う「主」に対する消極的概念だが、日本やアジアなどに存在する平和は、少なくとも状態を意味しない分、積極的概念であり、この観点から言えば中世ヨーロッパの民衆の中にも似たような平和の概念は存在した。
 
その民族特有の文化を維持するために必要な物質的、精神的基盤(subsistence)を保護することを平和の意味にしていたのである。
だが近代西洋文明はやはりフランス革命の影響だろうか、例えばこうして中世付近には存在し得た漠然とした概念を明確化、文書化しようとした瞬間から狭義的概念へと変質して行き、そこには誰もが理解可能な概念、つまりこれが正しいかどうかはともかく、「平等」の精神が入り込んできたために、平和の概念が狭められた状況が存在してしまったように見える。
 
また極端にリベラルな見かけが必要とされる近代欧米文明にあって、そこに中世には存在した宗教的不合理性が排され、数学的な理論展開が必要とされたに違いなく、こうした思想をあたかも真実の如く見せてきたのが、資本主義の行き着く先であった帝国主義だったと言うこともできる。
 
そして世界はこうした欧米の平和概念を基本にしてこれまで動いてきたが、その結果がアメリカによるイラク攻撃であり、アフガニスタンへの侵攻である。
ここに見えるものは狭義の平和を用いて、この平和を維持するために戦争をするという、狭義の平和思想の空間的拡大、支配であり、これは平和の概念が広げられることと相反するものであることは言うまでもない。
 
現代社会が持つ平和に対する概念は、基本的に明文化できるものではなく、これを明文化したものは、その大きな概念の一部にしか過ぎないが、この狭義の平和を用いてそれを推進しようとすると、宗教や伝統を包括した広義の平和とは対立が起こってくる。
これが現在の国際社会の状況であり、平和の概念とは、およそ同じ民族どうしであっても例えば民衆と官僚では違い、農民とサラリーマンでも違う。
これを統一した概念にしようとすればどうなるか、そこにあるのは必要最低限の平和、つまり戦争のない状態をして最終目的にしか出来ないことを、あらかじめ理解しない者には、永遠に平和など分かろうはずもなかったのである。
 
またこうして平和に干渉した「平等」だが、この対語は「不平等」ではない、平等の対語は「自由」であり、平等と自由は同時には存在できない。
ゆえに現在我々の社会に存在する自由も平等も、限定されたものであり、純粋な自由も平等もこの地上にその存在が許されてはいないばかりか、求めてもならない。
 
およそ生物として後代に子孫を残せるものは、その最も優秀なところから順位が優先されるのは自然の理であり、ここに平等を求めるなら、その社会は1人の王とそれ以外の奴隷、この内奴隷で有れば平等は成立するが、生きていたい、明日も生きたいと願うなら、その瞬間から平等などその個体内に存在し得るものではなくなり、自身が求める平等は、自身がそう思えるだけで、決して「他」に取って平等とはならない。
 
平等の精神の根底に潜むものは、その出発点から始まって「比較」であり、この意味で平等とはその思想の始まりからが不平等を意識したものとならざるを得ず、初めから矛盾なのである。
また自身の自由は「他」の自由を奪い、「他」の自由を尊重すれば、そこに自身の自由は存在できない。
 
自由とは常に全体に対する「個」であり、これを突き詰めれば確かに平等へと行き着き、同じように全てが他と均一であることを望み、これを突き詰めるなら、そこには完全なる自由が顔を出すだろうが、この状態はどう言う状態かと言えば、世界に自分1人しか存在しない状態を言う。
 
平和、自由、平等、これらは何かの形を持たず、日々人により時間により動いているものであり、存在していても言葉に表すことはできず、また文字にもすることは叶わない。
それ故これを止まったものと考え、何かの突起を見つけ、それに先鋭化し具現化した場合は、いかなる時も過ちとなり人々に不幸をもたらす。
これが戦争である。