「もう、一人でも大丈夫さ・・・」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/09/17 07:02

春5月、暖かい陽射しの日だった。
車を出そうと車庫を開けた私の足元へ、転がりこむように走ってきたその白い塊は、勢い良く私の足にぶつかり、横になってコンクリートに頭をこすり付けるようにして嬉しそうにしていた。
白い猫・・・・。家は県道沿いでしかもこの田舎具合、猫を棄てるには持って来いの立地条件だが、その為これまでにも何度と無く棄てられた猫を飼っていたし、農家で大量の米を保管している事情もあって、幼い頃から取り合えず猫は大歓迎の家だったので、さっそく両手で抱いて顔を近づけた私は一瞬にして言葉を失った。


この猫には両目が無かったのである。
まるでくり抜いたように眼球そのものが無く、まぶたを開いても肉壁しか無いのだった。
恐らく棄てた人もこうしたことから棄てていったのだろうが、こうなるとがぜん燃えてしまう私はなにが何でもこの猫を飼うことに決め、家族も可愛そうだと言うことでこの猫は家族の一員に加わった。


本当にかわいい猫だった。
人を疑うことを知らず、呼べば全力で走ってきてぶつかって止まり、えさの時間が遅いときは背中にコンコンと2度ほど頭をぶつけて知らせ、極端に心霊現象を恐がる私が夜一人で仕事していると、必ずやってきてストーブの前で横になり、時々私の仕事振りを聞き耳を立てて聞いていた。
私はこの猫のお陰で夜遅くなっても安心して仕事ができたのだった。
ただ、やはり両目のことは来る人みんな「これはどうしたんだ」と言い、かわいそうだと言う人と気味が悪いと言う人に分かれたが、この猫が本当に優しい奴だと分かってきていた私にとっては、もはや目が有ろうが無かろうが関係の無いことだった。


そんなある日、家へ新興宗教の勧誘に来た一人の男性がいたが、ちょうどまだその頃元気だった祖母が相手をしていて、何か様子が変だったので行って見ると、祖母は大変な勢いで怒っていた。
男性が話していると、そこへ猫が顔を出したらしく、猫の目が無いことから「これは呪いの猫だ、家に災いをもたらす」・・・・そう祖母に告げたらしい。
祖母は明治の女で、私とは違って?とても気性が荒く、特にこの手の話には烈火の如く反応することを知らなかったこの男性には気の毒なことになった。
「たかが猫一匹で傾く家なら、始めからそんなものは見込みがなかったんだ、この猫で家が傾くならそれで本望だ」と言うような事を言っていた。
祖母の余りの勢いに、たじたじになった振興宗教の男性は悪態をついて出て行ったが、私はやはりこの人の孫で良かったな・・・と思ったものだ。


この猫は目が見えないにも関わらず、呼べば障害物にぶつかる事もなく走ってきた、声の調子で人の心を理解し、そして何より誰か他の者を助けよう、その者の力になろうとする心があったように思う。
いつも人に頭をこすり付けてゴロゴロと喉を鳴らしていたが、そうした行動の中から私はこの猫に「心」を見ていた。


だが、別れは以外に早くやってきてしまった。
家へ来て2年経った頃、この猫は突然体が弱ってきて、餌も余り食べなくなってしまったので、獣医さんに診てもらいに行ったら、「よく2年も生きられたな」と言われたのだった。
もともと白い猫は奇形や障害が起こり易くて、この猫もそうした理由で始めから目が無い状態で生まれてきたのだろう、そしてこうした障害の場合は生まれて数ヶ月しか生きられないのが普通だが、良くぞここまで・・・・と言う話だった。
これは助けられない、ある意味この猫の寿命と言うべきものだ・・・・と言われた。
私は猫を抱いて車に乗せ家へ連れて帰り、いつも彼が寝転んでいた仕事場の指定席で寝かせ、時々綿棒に水を浸して飲ませながら仕事をしていたが、朝方何となくいつも動いている耳が動かなくなったので、水をやろうとして近づいても顔を上げない、なみだ目になりながら頭を撫でたがすでに彼は死んでいた。


私は身近な者、親しい者が死んだとき「ありがとうございました」と言うことに決めているのだが、このときは彼の出生から始まっての苦難を思い、「よく頑張った」も付け加え、もしかしたら生き返ることが・・・・などと思って一日待ったが、そうはならなかったので、翌日家の近くの川沿いの田んぼ、その土手に穴を掘って埋め、少し大きめの石を乗せて墓碑にし、花を飾った。


数日後、すでに彼の特等席に置いてあった座布団も洗濯し片付けてしまった頃だが、午前中、仕事場で焦って仕事していた私は、入り口の戸が2回押されたような音がしたので「シロか・・・」と思って戸を開け、また仕事に戻ったが、しばらくして振り返ると特等席がガラーンとしているのを見て、彼がいなくなったことを思い出した。
猫はいつもここへ来ると2回、頭で戸を押して私に知らせていた、いつもニャーンとは鳴かなかったのである。
もしかしたら風の音だったかも知れないが、何となく猫が心配して様子を見に来たのかな・・・多分夜に来ると恐がるので午前中にきたんだなと思ってしまった。


「もう、一人でも大丈夫さ、恐がったりしない・・・だからお前はお前自身のことを考えるんだ・・・」


あれからかなりの年月が過ぎ去って、祖母も死んでしまったし、私も年を重ねてしまった。
でも今でも仕事場の戸が風で押された音がすると、一瞬戸を開けようとして振り返る私がいる。