「線を引く」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/10/24 06:08

例えば市場で毎年生産量が少ないサクランボは市場で優遇され、その市場出荷手数料が免責されていたとしよう。
でも年によって大きなばらつきがある「みかん生産農家」に対しては、市場がその不安定さから、市場出荷手数料を徴収していたらどうなるか・・・。
 
やがてサクランボ生産農家が優遇されていることを知ったみかん生産農家は、その市場での不均衡を是正すべきだと騒ぎ出すことになる。
そしてこうした場面、市場と言う農家を包括する組織と、生産農家との対立は両者共にこの問題に対して、それぞれの利害を背負うことから、相互に公正な調整機能が無い。
 
この場面で両者の対立を調整するのが「政治」であり、これは例えばロシアとの領土問題でも、そうした問題を調整することが政治と言う事になる。
従って政治には高邁な理想などは必要が無く、如何に問題を調整できるか、その能力こそが「政治能力」と言うものであり、ここに金権政治で汚職にまみれようが、あちこちで女を作ろうが、調整機能のある者こそが有能な政治家と言える。
 
ただし、調整と言うものには相互が納得できる形の無いものが必要になる。
これが政治に措ける「権威」と言うものであり、この「権威は」調整を望む双方が自主的にその権威の所有者である権力者を支持することで担保されるが、ここで権力者の権威の正当性を計る基準となるのが、その思想よりむしろ、現実的公正さと言う事になる。
 
そえゆえ調整機能で必要とされるのは、本質的にはその権力者の人間性や、品格ではなく公正さと言う事になるが、ここで発生してくるのが「平等」と言う思想である。
多くの人間はこの「平等」と言うものを何か確かなもののように錯誤しているが、実は人間社会に「平等」は存在せず、平等の本質は「制約」である。
 
それは本来空間的広がりで言えば、机の上に置かれた画用紙の上に一本の線を引いたようなもので、この線によって元々は画用紙の総面積が自由に使えたものが、その線が描かれたがゆえに分断、若しくは次に何かを描こうとする場合の邪魔になっていくケースが現れる。
これが平等と言うものである。
 
また人間は任意に引かれたこうした線に制約を受けると同時に、そこに依存し、その線を主体に物事を考えるようになるが、これが平等がもたらす時代ごとの価値観とも言え、更にこの線に多くの人間がぶら下がっていくと、一本の線は人間の劣化とスパイラルになって奈落の底へと落ちていく。
 
また権力志向の強い者、貧しさを知らない者、愚かな者は基本的に平等などと言う高邁な思想は口にしたとしても、その体躯には馴染んでおらず、従ってこうした愚かな者ほど、平等によってスパイラス落下を起こさない側面を持つ。
これが民主制によって政治が衆愚政治へと劣化しない原理、即ち王制や専制政治の民主制に対する優位性である。
 
しかし思想的に高邁な者、また貧しい者は一度そこに「平等」の線を描いてしまうと、民衆の要請に応じてどんどんその線の位置を低くして行ってしまう。
つまり画用紙を線だらけにしてしまい、次に何かを描くことが困難な状態としてしまうのである。
 
冒頭の話に戻すなら、その当初は確かにみかん農家とサクランボ農家には不平等があった。
そしてこれは政治で解決すべき問題だろう。
だがこれが行き過ぎて、例えば市場価格でどうしてこんなにもサクランボとみかんの価格に差があるのかと言うことになり、みかん農家に補助が与えられば、サクランボ農家とみかん農家の格差は減少すると言うことを考え始めるようになり、平等を巡ってその僅かな差すらも政治が解決しようとしたときには、平等の連鎖が始まっていく。
 
その結果どうなるかと言えば、本来は農家が努力することで解決しなければならない問題にまで、つまりはその調整が自由意志に任される部分まで調整課題となり、こうなれば民衆の暮らしの細部に渡って調整、言い換えれば政治が介入し、為に民衆はその努力を全て政治に押し付けるようになるのである。
 
またこうして細部に渡るまで政治が介入する状態は、本来であれば少人数であるべき政治、行政組織を肥大化させ、ここに調整役の政治は完全にその制度自体を独立させた形を発生させ、ついに本来の調整機能が民衆と対立を起こしていくようになる。
 
日本は1991年に発生したバブル経済の崩壊と共に、それまで存在したあらゆる価値観が守れなくなってしまったが、その中で調整機能として求められた政治家の資質もまた根拠を失い、そこから本来政治には必要の無い人間性や、思想に民衆が根拠を求めて行った。
為に政治家は本来ならば調整能力が問われるにも拘らず、そこが蔑ろにされ、ただ人間性や思想の爽やかさだけで政治家が選択されるようになってしまった。
 
しかし格差社会の是正、平等の精神を突き詰めた社会は、基本的に画用紙に数え切れないほどの線を引いてしまい、そこには何も描けなくなってしまったのである。
政治は対立の調整機能であり、調整はできれば少なければ少ないほど、社会の自由裁量が増し、そこでは健全な競争原理のなかでの自然調整がはかられる。
更に平等の精神は基本的には人間の劣化を容認していく。
 
このことを考えるなら、日本国民は政治に頼ってはいけない。
自分の出来ること、できる最大限の努力は自分でしなければならず、また根源的な話だが、自分の両親の面倒を見るのは政治の責任ではない。
それは生物学的にも、また道徳的にも子孫である子供の責任であり、こうした部分まで政治の責任にするのは甚だ怠惰な平等の暴走であり、また声高に規制緩和を唱えるなら、政治が国民の責任を少し以前の段階まで戻すことが、それを達成する近道となるのではないだろうか・・・。