「マニエリスム」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/12/07 05:23


生物が持つ価値判定の出自は「危険」である可能性が高く、この点で言うなら環境の中に多数存在するもの、現状で安定しているものは「安全」である事から、ここに緊急性を求めるようには構造されていない。

数の少ないもの、特殊なもの、動くものに対して最初に反応する。


そして人類のように社会が形成され、生存に関する不安が極めて少ない環境が現れると、その当初危険察知機能だった特殊検出傾向は一定の価値観に変質して行く。


人間の価値観、芸術的思考が常に劣勢、数の少ないもの、現状とは異なるものに向かうのはこうした背景を持つ為と考えられ、この意味に措いて芸術と危険、堕落は表裏一体のものと言う事が出来る。

また人間の感覚は生存に関する不安が縮小されると、それまでの最大の価値観だった生きると言う命題が特殊性から開放され感覚的に希薄なり、社会志向として意味の有る物事から意味の無い物事へと価値観を向かわせる。


イタリア語で「Manierismo」と言う言葉が有る。

発音上は「マニエリスモ」だが、フランス語や英語では「マニエリスム」と発音する為、一般的には「マニエリスム」と呼ばれるこの言葉の語源はイタリア語の「maniera」(マニエラ)であり、後にはマニアやマナーと言った言葉に分かれていくが、本来の意味は「マニュアル」(手順・手法、形式)である。


16世紀中頃、15世紀から16世紀前半に活躍したレオナルド・ダビンチやラファエロ、ミケランジェロなどを頂点と考え、これをあらゆる芸術、技術の手本とする動きが出てくるが、これをマニエラと言い、こうした絶対的な美術様式の確立に対して従う者と反発する者が時代ごとに起こってくる。


その結果良くも悪くもあらゆる比較の対象として存在してくる事から一つの思想、傾向として区分されてくるが、ここで出てくるマニエリスムは基本的に15世紀から16世紀の完成された都市感覚、停滞した時代を背景に持つ為、あらゆる方向で意味の有る事から無意味に向かっている時期、意味の無いものに社会が向かっている時期の感覚であるとも言える。


時代が実用性から非実用性、日常から非日常性に向かっていた時代だったと言う事であり、元々こうした劣勢、堕落と親和性を持つ芸術が発展し易い環境、天才の条件である特殊性、劣勢が評価され易い時代背景が醸成されていたと言う事である。


我々は一般的に天才と言うと何か特殊な絶対的な能力のように考えるが、本来生物は危険を背景とするそれぞれの環境に影響を受けた特殊性を獲得していて、言い換えれば全ての人間はどこかの分野で何がしかの特殊性を有している。

規模の大小、方向性は有るものの、全ての人間は役に立つか否かは別にして天才であるとも言えるのである。


唯、そうした特殊性を他者がどう評価するかと言う点だが、ここでその特殊性を次の何かに繋げる者が存在するか否か、その時代や社会がそれを必要とするか否かで、独立して存在している特殊性が汎用的価値を持つかどうかが決まってくる。

天才とはその存在の以前に社会や他者が特殊性をどう評価するか、どう評価したかと言う分岐点を持ち、これに拠って天才と劣化に別れて行くと言う事である。


後一点、「記録」と言う行為が有り、例えばダビンチなどは徹底したメモ魔だった。

彼は子供の頃から興味が有るものをスケッチしていて、後世彼が考案したとされるアイディアの中には、実は14世紀の「コンラッド・キーザー」が考案した軍事機材に類似しているものが有り、15世紀にはヨーロッパで広く流布されていたコンラッドの技術が、スケッチに残して置いた為にダビンチの発明と考えられて来た可能性が有る。


また同じようにダビンチより10年ほど先に生まれ、全ての意味で天才と謳われた「フランチェスコ・ディ・ジョルジオ」もダビンチが影響を受けた者の一人で、ラウレンティアーナ図書館に保管されていたジョルジオのノートの中には、長い間それがダビンチのものと考えられてきたものが存在したが、これはジョルジオのノートにダビンチが書き込みをしていたものだった。


筆跡に拠って区別されたのだが、ダビンチはジョルジオのノートを手に入れ、それに書き込みをしていて、このジョルジオのアイディアの中にダビンチが発明したとされる大方の発明が既に出現しているのである。


天才とはこうしたものであり、後に汎用的価値の大きくなる者はその以前の天才をも含めて大きくなるが、天才は自身以前の天才に影響は受けても崇拝はしない。

しかし自身の才がその以前の天才とは別に在る事を認識せず、以前の天才と同じ分野を目指していて及ばない者は以前の天才を崇拝する。


ミケランジェロの弟子「Giorgio Vasari」(ジョルジオ・ヴァザーリ)は勿論才能も有ったが、彼はルネサンス後期に在ってミケランジェロやダビンチ、ラファエロなどを手本として踏襲し、その彼の記録能力と政治力などに拠ってマニエリスムが完成する。

これはひとえにジョルジオの才がミケランジェロやダビンチに及ばない事がジョルジオ自身に拠って認識されていた為である。


一方元々同じ分野で才の有るダビンチの書き込みは無邪気なものとなり、その以前の天才のアイディアに対して「自分ならこうする」と言う思いが発生し、それを何の躊躇も無く書き込む為、以前の天才と同一空間に立つ事になり、ここにその発見や発明がその以前の天才のものか、そこに書き込んだ者に拠って為されたものかが判別不能となる。


つまり天才とは是非を問わず、その才の無い者に拠ってしか認められないと言う事である。

世界の発明の多くは突然現れるのではなく、その背景には多くの、時代に認められてこなかった特殊性の歴史が潜んでいる。

天才とはその突起であり、一つの結果である。


認められない時代にも挑戦し続ける特殊性が存在して始めて、天才が生まれるものなのではないか、そう私は思う。

ちなみに私の才能はとてもひどい方向音痴だが、これでは何の役にも立たないか・・・。