2018/12/19 06:45



人類文明が発生したごく初期の段階、またそこに宗教的権威を持った統治が為される初期の段階に措ける裁判では、裁判と罰則が同時である傾向にあった。
すなわちここでの罪の概念とは「自分と神」または「自分と自然信仰」との関係で罪が概念され、この場合は罪が確定した段階か、それで無ければ自分で罪を意識した段階から罰則が発生することになる。
 
罪と罰の関係に措ける最も理想的な形とは、自分が罪を意識できる状態である事を指していて、つまりは自身のうちに法を持ち、それに従って普段の生活を営むことが基本となる。
それゆえこうした「個人の内の法」とは、その個人が絶対的な権威を信じることができる、若しくはそれに順ずるものでなければ成立せず、古代に措ける法の権威とは「神」である必要があった。
 
ゆえに、古代に措ける罪と罰の有り様とは「神判」であり、この概念は「裁判」とは異なるものである。
そして日本に措けるこうした「神判」の記録としては、仁徳天皇(にんとく天皇・257年ー399年?)の子である「允恭天皇」(いんぎょう天皇・376年ー453年?)が行った「盟神探湯」(くがたち)が記録に残っている。
 
「允恭天皇」には大変心が優しく、謙虚であったとする人物評が有り、上に2人いた皇子の「履中」(りちゅう)、「反正天皇」(はんぜい天皇)が、次々崩御したことから大王となったが、こうした経緯からその統治に対する正当性を、神に問う意味が有ったのだろう、豪族達の氏姓(うじかばね・素性の意味)を正すとして「盟神探湯」を行っている。
 
「盟神探湯」とは古代日本の「神判」の一つであり、別名「誓湯」(うけいゆ)とも呼ばれるが、熱湯を釜の中に入れ、その中に手を入れさせ、火傷になるか否かでその人物の行いや、言葉の正邪を判断するものだ。
この考え方の原点は「火」に有るが、「火」にはもともと嘘つきを見分ける霊力があるとされていた為で、こうした傾向は、性質としては後世に措いて全く正反対になってしまったが、キリスト教の「インフェルノ」、仏教の「地獄」などと源を違えていなかった可能性がある。
 
また「盟神探湯」と言う漢字は後世の「当て字」であり、「くがたち」の「く」とは「火」を現していて、基本的には「輝く」の「かが」、「かくつち」(火の霊)の「かく」と共通する言葉で、これを「たち」、つまり「たつ」とすることから、「断定」、「断罪」を表している。
分かり易く言えば、「火の霊によって罪が断罪される」事を指しているのであり、ここでは人間界で言うところの裁判、罪の確定、そして罰と更生が包括された形になっている。
 
日本に措ける「盟神探湯」は恐らく「稲の道」を辿って入って来たものだろう。
インド、照葉樹林地帯のチベット、中国雲南、江南(揚子江流域地帯)と言うルートを辿ったものに違いない。
そしてこうした「盟神探湯」の思想は、江南の地から東南アジアへも伝播して行ったのではないかと思われる。
 
インドでは19世紀の近代に措いても「火」を用いた「神判」が存在していたし、フランス植民地時代の「カンボジア」でも、こちらはフランスの記録だが、やはりカンボジア王国で行われていた「火祀裁判」の記録が残されている。
またこれに関して興味深いのは、6世紀ごろに編纂された中国の史書「梁書」(りょうじょ)の記述であり、ここには現在のカンボジア地域が「扶南」(ふなん)と呼ばれていた時代の記録が残っていて、「梁書」中には次のような記述がある。
 
「扶南では罪を犯した疑いのある者に対して次のような神判を行っている。彼等は3日間身を清めた後、赤くなるまで熱せられた斧を持って7歩、歩かされる。若しくは熱湯の中に投げ込まれた金の環や卵を手探りで拾わされ、罪があればその手は焼けただれるが、罪が無ければ何事も起こらない」
 
この記録は5世紀末か6世紀初頭の様子を記していることから、奇しくも日本の允恭天皇と同じ時代、近代に措いてカンボジア王国と称される同じ地域で、日本と同じ形式を持つ「神判」が行われていた事を示すものであり、こうしたことから5世紀から6世紀、少なくともインド、日本、東南アジア地域では、同じ概念の「神判」をして裁きを行う統治形式が存在していたことが分かるのであり、あるいはこうした傾向が当時のアジア社会の流行だった可能性も否定できない。
 
「火」による裁きの記述はこの他「日本神話」中にも出てくるが、「瓊々杵尊」(ににぎのみこと)は「木花開耶之姫」(このはなさくやのひめ)がたった一晩で妊娠したことを不可思議に思い、もしかしたら自分の子供ではなく、国神の子供では無いかとの疑惑を持った。
そしてこうした「瓊々杵尊」の疑惑に対し、「木花開耶之姫」はこう言う。
「産屋を囲みて、そこに火を放ちください。もし生まれて来る子供が尊の子供で無いなら、子供は焼かれるでありましょう」
 
しかし周囲を火で囲まれた産屋で3人の子供は無事生まれ、これをして「瓊々杵尊」は「木花開耶之姫」に対する疑いを解いたのである。
中々面白い話だが、そもそも神ともあろう者が自分の子供すら分からず、それを火の精霊、火の神をして正邪をはからせる辺りに、実はこうした「火の神」「火の精霊」の存在が、「瓊々杵尊」のような神より歴史が深いことを示しているようにも見て取れる。
 
そしてこのことは「火祀」よる「神判」が、意外に古くからアジア共通の概念として、長く用いられていた可能性を示すもので、この概念の根本は「裁き」と「罪」、「罰」、「更生」がセットだったことである。
 
だがこうした「罪の概念」として、個人と神との関係が持つ総合的な部分は次第に移り変わり、そこに人為的なものが入らない、つまりは権威としての正当性は、やがて「神」の手から「神」の代理となった者の手に移り変わってしまい、裁き、罪、罰、更生はそれぞれが分離していくようになって行ったに違いない。
 
すなわちここに「神判」は「罰」としての意味を持って来たのであり、それは取りも直さず、初期の集団、集落が組織として定着し、そこから本来は神の領域であった「罪」が、人間同士によって規定されるようになる、いわゆる人間が「罪」を作る社会が発生してきたのであり、もともと裁きと罪、罰、更生は同じ概念の中にあったのだが、そこから罪が分離されたことにより、罰が分離され、やがては裁きが必要になって行ったと推察されるのである。
 
この傾向は世界的には、恐らくメソポタミア文明や古代バビロニアの初期には始まっていただろうし、エジプトではもっと早い段階から分離が始まっていたかも知れない。
そして日本でも「允恭天皇」の時代に措ける「盟神探湯」などは、まず間違いなく「神判」ではなく、「罰」の概念が存在していたと思われるのである。
 
「神」の名の下に人が人を裁くなら、それは結果として「神」を否定し、神の領域に人間が足を踏み入れる事になる。
人類が持つ「平和」や「正義」、そして「裁判」と言うものが、いつどの時代であっても、「究極的根拠」を持たない理由は、意外にこんなところに端を発しているのかも知れない・・・。