「瓢箪に遭う」(ふくべにあう) | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2018/12/26 06:20



新潟県、富山県、石川県、福井県の主に山間部地域だが、「ふくべが来る」若しくは「ふくべに遭う」と言う言葉が存在した。

ここでこの言葉を過去形にしたのは、既に相当年齢を重ねた者でもこうした言葉を使わなくなった為で、「ふくべ」と言う、どこかで「福」に通じるようなこの言葉の持つ意味は意外な事に「禍」である。

「ふくべ」とは瓢箪(ひょうたん)「夕顔」(ゆうがお)の別称で有り、瓢箪は禍福どちらにも転ぶものとされ、その因は中の空洞に有る。
古来より日本では空いた空間、穴や空洞には「霊」が宿ると考えられた事から、瓢箪は吊るして措けば魔除けになるが、家の庭に植えると禍(わざわい)をもたらすものとされてきた。

またこうした「瓢箪」や「夕顔」の皮が持つ堅さに対する表現は、その堅さをして他のものにも転用され、表皮の堅い果実なども「ふくべ」と呼ばれる事が有り、こうした経緯から漠然と「成熟」を過ぎたもの、「老い」すらも過ぎたもの、元は用を成したもの乍それが邪魔になってきたもの、或いは人が何かに執着し過ぎて人としての在り様すらも過ぎてしまった、言い換えれば「付喪神」(つくもがみ)を表現していると考えられる。

宴席や人の饗宴などでは、基本的には招待した客に楽しんで行って貰いたいが、それにも限度と言うものが有り、例えば後片付けすら出来ない遅い時間まで、周囲の客がいなくなっても残って酒を飲み続けたとしたら、どこかでは招待した家の人から「早く帰ってくれないかな・・・」と思われてしまう。

この邪魔に思われてしまう事を「ふくべが来る」と表現したのであり、ここでは適当な時間帯までは歓迎されるが、過ぎれば邪魔に思われる為、そうした思いを人に抱かせてしまっては、その時はもとより後々も禍となりかねないゆえ、招待した家人が「どうぞまだ宵の口ですよ」と形而上引き止める言葉に対して「いやいや、これ以上お邪魔するとふくべが来ると困るので帰ります」と返した訳である。

またここからは高齢者の方には辛い話になるかも知れないが、こうした北陸の山間地のような所は貧しく、為に過ぎたる事を「宿悪」と看做す部分が有り、「ふくべに遭う」と言う表現は長生きを善しとはしない表現である。

この背景は貧しさと、生活体系の不安定さにあり、打ち続く飢饉や武家公家社会では一般大衆や農民の明日など常に風前の灯火だった現実がそれを物語っている。
即ち蓄財し、孫にまで囲まれて幸せに暮らしていたとしても、その次のひ孫が病弱でせっかくの蓄財も薬代に消え、それが基で家族が互いにいがみ合うような地獄が訪れないとも限らず、また自分は長生きだったとしてもその子供が先に死んでしまえば自身の生活も困窮する。
適当な時期に死んでおけば幸福な一生だったのに、長生きした為に地獄を見てしまったと言う場合、「ああ、ふくべに遭ってしまった」と嘆いたのである。

だがこれは何か努力して避けられる事だったかと言えばそうではない。
それもまた天の定めである事から、私はこうした場合を「宿悪」と表現する事にしているが、一方順風満帆な人生を人に誇り、そこで奢った在り様の無きように戒める意味も持つかも知れない。
「ふくべ」は基本的には「禍福」である。

その途中までは有用だったものが、時期が過ぎれば邪魔になる。
これは日本人が持つ古神道の考え方で、道具や家畜に対する畏敬の在り様を示していて、その例が「とが」と言う言葉である。
栂(ツガ)の木は別名「とが」と言い、この謂れは「咎」(とが)にある。
磔(はりつけ)などの処刑にはこの「栂」の木が多く用いられた為、「栂」の語源は「咎」に有るとされていて、古い時代の日本では「とがになる」とか「とがにしてしまう」と言う表現が存在したが、これは「他に罪を犯させるような行為を自分がしてしまう」、「その存在を自分が凶にしてしまう」と言う意味である。

即ち猫でも犬でも邪険に扱えば、やがては人に警戒心を持ち危害を加えるようになる。
いつか咎めを受けるような存在にしてしまうから、大切に扱いなさい、労わりなさいと言う意味であり、これがもっぱら道具や家畜などに対して使われる場合は、それらを粗末にすれば道具達は祟り神になってしまうと言う意味だった。

そしてこうした道具や家畜に対する畏敬の念が「付喪神」「九十九」(つくも)の考え方で、「九十九」は基本的に長く存在したものの意味である事から、日本人は長く存在した道具や家畜もまた神と考え、しかもそれが元は道具や家畜である事から、途中までは「福」にして、過ぎれば「禍」としたのであり、一般的に道具は使われなくなると「禍」をもたらす忌み神と考えたのだが、「忌み」はまた畏敬をも含んでいるものなのである。

鎌倉時代に日本の道具は格段の向上と生産増加を果たすが、その影でそうした道具が粗末に扱われる事を戒める思想もまた発展した。
それゆえ安土桃山時代までは「付喪神」も信仰されたが、これが江戸時代に入り大量消費と共にリサイクルシステムが発展した結果、消費に対する罪悪感が薄れ、そこで現世ご利益の有る神仏信仰に主体が移って行き、言わば後始末的、過去的な「付喪神」信仰はどんどん影を潜め、それが残ったのは貧しい地方の山村だった。

「ふくべ」は基本的には瓢箪だが、このように複雑な意味を包括し、尚且つ人々がこの複雑な概念を皮膚で知っていた訳である。
振り返って現代日本の言葉を鑑みるなら、どんどん一つの言葉が一つの意味しか為さない、文書化できる言葉になってしまってきている。

10年後には「ふくべに遭う」と言う言葉の解釈が、言語学者によって「瓢箪 や夕顔を見る」事だと真面目に解説されるのかも知れない・・・・。

ちなみに「瓢箪に遭う」の「瓢箪」は私が当て字したものであり、本来この発音を示す漢字は無い、若しくは不明である。
つまりこの言語は表音主体であり、記録や表記には殆ど使われない言語だったと言う事になる。


※ 本投稿を以って2018年度の投稿は終了致します。

次年度投稿は1月3日から開始予定です。

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良い年の瀬、良い新年をお迎えください。

 

                    文責 浅 田  正