2019/02/19 20:17



田舎のおじいちゃんの家へ行くと、玄関に長くかけられたままになっている色紙があり、そこにはたいてい「和」とかの字が書かれてはいなかっただろうか。
日本人は「和」と言う言葉が好きである。
今日はこの「和」を始めて憲法に記したとされる男、聖徳太子を通して日本人が最も好きな言葉「和」とは何かを検証してみよう。


587年、今から1400年以上前だが、それまで絶対的な権力があった大伴氏が失脚、それに伴って大臣(おおおみ)の蘇我氏と大連(おおむらじ)の物部氏が急激に勢力を拡大してきた。
蘇我氏は大陸、朝鮮の帰化人達とつながりがあり、交易や国家の財政を握る新興勢力で、皇室と姻戚関係を結び権力を拡大していったが、物部氏は伝統的、保守的な軍事担当勢力で、急激に拡大していった蘇我氏とはことごとく対立していく。


おりから当時の用明天皇が、流行の兆しがあった仏教をこの国に受け入れて良いものか、会議に諮ったところ、仏教受け入れに賛成の蘇我氏は仏教反対の物部氏と中臣氏を策略で破り、両氏を宮中から追放してしまう。
これに怒った物部守屋(もののべ・もりや)は軍隊をととのえ、一発触発となるが、その年、用明天皇が崩御(亡くなった)、これにより両者の争いは天皇の後継者争いへと発展していく、世に言う「崇仏戦争」である。


物部守屋は起死回生の一打として欽明天皇の皇子、穴穂部皇子を天皇に擁立しようとするが、これに対して蘇我氏は敏達天皇の皇后(後の推古天皇)と用明天皇の皇子、聖徳太子と提携、穴穂部皇子を殺害、物部氏も滅ぼした。
蘇我馬子はこれで絶対的な権力を手にし、敏達天皇の皇后を推古天皇とし、聖徳太子を皇太子、実務担当「摂政」(せっしょう)としたのである。


だが、この時代朝鮮半島にそれまであった日本領、任那(みなま)日本府が滅び、これを奪回すべく新羅と幾度となく激突し、大陸中国では隋が南北朝の統一を終え、高句麗に圧力を加えていた。
また国内では、蘇我馬子の勢力は皇室をしのぐものにまで拡大、こうした情勢にあって聖徳太子は蘇我氏の顔色を伺いながらも天皇中心の中央集権国家の実現を目指していったのである。


どうだろうか、これほど「和」に遠い男が604年に制定したのが十七条の憲法であり、その第一文があの有名な「和をもって貴(とおと)しと為し、さからう事無きを宗となせ・・・」なのである。
権力闘争の中で、皇子を殺し、旧臣を滅ぼし、血で血を洗う骨肉の争いに巻き込まれ、朝鮮の任那日本府奪回に何度となく軍を派遣、新羅と泥沼の戦争を続けて行ったのである。
皆がよく知っているあの旧一万円札の聖徳太子とは別人のあり様ではないか。


だが私はこの男が好きである。
なぜならこうした男でなければ「和」など理解しようもないからだ。
血の海の中、それも肉親や幼きおりから世話になっている旧臣達のしかばね、その中で聖徳太子は何を思っただろう。
おそらく唇をかみ締め、天を睨んだにちがいない。
いつか争いの無い時代を・・・と願ったに違いない。
しかし、朝鮮半島情勢は一進一退を続け、最後は自身の弟である来目皇子を将軍にして新羅討伐軍25000人まで用意するが、この皇子の病死で討伐は延期されるのである。
その心中に争いの無い世の中に対する願い、祈りにも似たものが渦巻いたことだろう。


「和」は単に仲良くすることではない、反対しないことを「和」とは言わないのだ。
意見が合わなくてもその意見を尊重し、意見だけで相手の人格まで否定しないことだ。
だから反対しても「和」はあり、賛成していても「和」ではないことがある。
日本人の「和」は得して迎合に近いものがあり、その場は仲良くしていても帰ったら途端に悪口という例が多く、これは「和」ではなくむしろ敵対になる。


天台宗の開祖、最澄と密教の開祖空海のこんな逸話がある。
2人は互いにライバルで、お互いそんなに相手のことを良く思っていなかったが、ある日最澄が、空海に一つの経典を貸して欲しいとやってきた。
しかしいつも借りて行って帰さない最澄に空海は経典を貸すことを拒んだ。
最澄は仕方なく帰るのだが、空海は弟子達に「あの人の背中に合掌しなさい」と言うのである。
本は貸せなかった、しかし年下の自分に、しかも本当は良く思っていない相手でも知りたいと思うその気持ちから膝を屈してでもそれを求める、その気持ちは尊い・・・。
さすが、空海だと思わないだろうか。
これが「和」と言うものだ。


聖徳太子は謎が多い「万葉集」、「日本霊異記」を外せばその存在はあったのか無かったのかも分らなくなるし、十七条の憲法も「改新記事」の中には出て来ないことから後世付け加えられたのではとも言われる。
だが、聖徳太子がいなかったと言う決定的な根拠もまた無い。


この男その後も「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、つつがなきや・・・」とやるのだが、こちらも「日本書紀」と「隋書」の記述には違いがあるが、いずれにしても、国書でアジアの超大国「隋」の皇帝を激怒させる、何とも大好きな男なのである。


「和」は難しいことではない。ただ相手の意見を尊重することだ。
カエサルも似たようなことを言っている。
「自分の意見を聞いて欲しければ、まず相手の意見を聞け」