「下を見る」 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/02/28 06:27

私は納屋二階を仕事場にしているのだが、この階下には燕の巣が20ほども有って、毎年ここからは200羽を超える子燕が巣立っていく。

その為階下には農業機械を置いているのだが、それらにはブルーシートがかけられているものの、ちょと人には見せられない惨状となっていて、仕事で訪れた人などは燕の糞だらけの入り口で一瞬無言になる。

 

燕に限らず空を飛べる生き物と言うのは、その高さを飛ぶ為に下を見ない。

階下に巣が有る燕が階段から僅かに見える二階仕事場の窓の光に誘われて上がってくる時が有るが、そうした時必ず天井付近を飛びながら出口を探し、上がってきた階段、下を全く見ず、それゆえいつまで経っても元の巣に帰ることが出来ない。

 

椀を塗っている頭の上を出口を探して飛び回る燕に、「馬鹿だな、下を見ろ」と呟きながら、可愛そうなので仕事場の窓を開けると、そこから勢い良く外に飛び出していく。

これは、さては二階へ上がっても私が窓を開けてくれる事を承知しているからか・・・。

否、低い処に在る者は上が見えるが、高い処に在る者は下が見えないと言うことだ。

 

この事はよくよく気を付けなければならないが、上を目指して、高度な技術を目指している者は、この二階へ上がってきた燕に似ている。

何にせよ限りと言うものが有り、高度な部分を目指すときはこの限り付近を飛ぶが、天井と言う限り付近を飛んでいては、実は出口が見えない。

 

しかし下にいては有象無象と同じになり、ここに甘えては天井付近の景色は見えない。

だから常に下ばかり見ていてはいけないが、迷った時は「下を見る」事も肝要になり、この事は何を指すかと言えば「凡庸」であることを至上とすると言う事かも知れない。

 

天才の為す事は一見凡庸に見える。

我々は普通である事をつまらなく思うかも知れないが、自身のこれまでを振り返っても普通で有った事、当然の事がその当然に動いて来たかに鑑みるなら、実は普通である事はその反対の状況よりはるかに少ない機会だったと思わざるを得ない。

 

普通である事は大変難しい事なのであり、統計上の平均値は実際には一番少ない数値である事に同じで、上限と下限が見えていてこその平均なのである。

これを思うなら、水が流れる如く自然に、当然の事が当然のように流れていく事を畏れなければならないように私は思う。

 

すなわち派手な色彩で目立つ事は簡単で、言葉巧みな者は言葉で人を寄せる事も容易いだろう。

しかし塗りの職人の本分は人気を得る事ではなく、著名になって公演で稼ぐ事でもない。

技術を駆使して当然の形を当然たらしめ、人の世のどの場面に立っても違和感のない姿であることを至上と思わねばならないような気がする。

 

技術をひけらかし悦に入るのが目標ならそれもまた良いだろうが、私は自身がどんなに苦労した技術だろうが、それが使う人に気にならない事を本旨としたいものと思う。

技術や私の在り様など使う人に取ってはどうでも良い事であり、この自然の在り様に取っても何でもない事で、特に目立ちもしないが邪魔にもならず使われていくなら、これを私は至上としたいものだ・・・。

 

時に天井を飛ぶ燕に「馬鹿だな・・・」と呟きつつ、或いはその言葉は自身に向けられているかも知れないと、はっとする事がある。