2019/03/01 05:48

古来より軍隊と女の相性は悪い。
厳しい軍の規律は女に拠って崩れ易い為であり、またそもそも女と言う「生」は決死で戦闘を行うものの気概や士気を迷わせ、それゆえ古くから軍の中に一般の女が存在する場合、その軍の評価は限りなく低いものとなる。
 
だがその一方、一兵卒の立場であれば何とかして生きて帰りたい、家族もまた生きて帰って欲しいと言う「生」の執着にすがって、戦場の危機を調伏する方向が有り、これは女と言う情念を使って生き残ろうとする一兵卒の切なる祈りでもあり、女の陰毛をお守り代わりにするのは軍と言う生死を問わずの中で、その女の持つ軍とは真逆の「情念」を拠り所とする為である。
 
そしてこうして戦場や軍では女を忌む中で敢えて女を使う場合、これは「神性」である。
つまりは山深い道で若い女に出会った時、そこにいるはずのない者が存在する訳で、そこには人間の範囲ではない正邪の区別の無い神性が出てくる。
普通ではない、何か得体の知れない者だと言う恐怖感は「神」の始まりである。
 
こうした考え方の広義に「天意」もまた存在する。
すなわちこの戦いは神の戦いで有り、自分たちに抗する者は神に弓引くものだと言う威圧を擁する形式が有り、これは神社などで神のご加護を祈願する概念とは異なる。
 
春秋時代の中国、日本では武田信玄などが採用したものだが、その軍の一番先に巫女や楽士を配し、ここで太鼓や音を打ち鳴らして進軍する場合、それは神の軍であると言う意思表示になる。
つまり、我々は「天意」だと言う訳であり、武田信玄などは敵が武田軍を待っていると、そこへエイヤー、イヤーっと言う子供の掛け声と笛の音、それに諏訪太鼓の音が近付いて来て、それらが道を開けると怒涛の如くの騎馬兵が押し寄せてくる訳である。
 
この恐怖と、もしかしたら自分達は絶対勝てない戦をしているのかも知れないと言う不安感は戦闘に大きな影響を与える。
ちなみに、先に神の形を配した軍を攻める場合、楽士や女子供を殺してはならない。
何故なら元々神はどちらの味方をするかが決まっていない為であり、ここで敵とは言え先頭の神祓いを切るは、その時点で天のご加護を得られる見込みは無くなったと言うべきものなのである。
 

フランスの「ジャンヌ・ダルク」もこうした背景を考えると、なぜうら若き乙女が国家を救う事になったかを漠然と理解できるかも知れない。

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神性とは「有り得ない者」からこそ始まるものと言えるのかも知れない。