2019/03/04 06:13



「consumer」(コンシューマー)と言う言葉は確かに「消費者」と言う概念を包括するが、この中には結婚初夜とか、或いは「完成」などの、完全ではないが何かの到達点、目標到達の概念も含まれており、しかも人間の行動を生産と消費と言う極めて粗野な区分で表現したものだが、一人の人間が消費だけを行い一切の生産を行わない事は有り得ない。


従って、こうした区分そのものが成立するか否かは疑問な部分も存在し、そもそも人間が為す行動、或いは動物でも同じだが食べて生きていく、環境に対して自身を保護したり、生殖に関する社会的慣習や子育てに使われる財を、消えて費やされると表現されているその視点は、統治者やそれを管理する側の表現であり、良く考えてみればとても馬鹿にされた表現でもある。


しかし我々一般大衆は自身もこの少し小馬鹿にされた「消費者」を名乗り、その事に疑問すら抱かないのは、例えば会社員をしているなら、自身が生産者の側面も持っているからであり、この事は働いている者、子供を為してこれを育成している者、高齢者を介護している者など、あらゆる社会生活を営む者が生産者だからでも有る為で、こうした生産側の視点と消費側の視点が、自身の都合で自然に切り替えられて社会生活が営まれているからだ。


それゆえ失業率が低く、安定した経済環境ほど一般大衆の消費と生産に対する概念は生産側に向き易く、結果として消費と言う自身が為す事が無機質、無意味であるかの様な表現をされていても全く気付く事は無くなるが、確かに消費を無限連鎖的に喚起していく概念の経済は無機質、無意味な物と言う事が出来る。


また人の一生は「死」に拠ってあらゆるものが水泡に帰する事に鑑みるなら、我々が行っている事は全て「消費」なのかも知れない。しかし好きな人が出来て一緒に暮らしたいと思い新居を探す事、やがて子を為してそれを育てる事と、ハンバーグがどんどん消費され、太るからフィットネスクラブに通う事は同じでは無い。


好きな人が出来たり、子供を育てる事には強い能動性が有り、ハンバーグで太ってフィットネスクラブ通いは誘導性の行動である。

これらを一元的に「消費」と考える処から、経済学は現実の人間生活を壊す方向へと動いて来てしまった。

何が消費であり、何が生産なのかの区分が曖昧になってしまった訳であり、消費の中にも生産は存在し、生産の中にも消費は存在する。

これらは本来分離して考えられるべきものではなく、あくまでも統計上の仮想区分である事を認識しなければ、人間のあらゆる生産もまた無限連鎖的な消費にしかならない事になる。


我々が営む社会生活、日々の暮らしは全てが消費と言われればその通り、一方全てが生産と考える事もできるのであり、自身がそれをどう認識するかに拠って、先に見える経済は180度違って見えてくる。

自身が為している事を消費と思うか、或いは生産と思うかに拠って、先が未来になるか過去になるかの分岐点になる。


消費と言う言葉はこの意味からすれば自身の在り様を否定された言葉であり、少なくとも自身が胸を張って「私は消費者だ」と言うべき筋合いの言葉ではない。むしろ自己否定されたのだから、「無礼な事を言うな」と反証すべき言葉なのである。


ちなみに冒頭楽曲の「Mi mancherai」(ミ・マンケライ)は「あなたに会えなくて寂しかった」「あなたに会いたかった」と言う意味だが、この楽曲の歌詞では「amore mio」が続き、イタリア語のイントネーションではMi mancheraiの後に連続してamore mioが使われる場合、間に小さな「ェ」を意識すると発音はスムーズになり、通常ならこの後にti amoと言う言葉が続くだろう。


「ミ・マンケライ」「アモーレ・ミオ」は多分イタリア人の男なら最初は普通に、そして「アモーレ・ミオ」は少し大きな声にする可能性が高いが、日本の男が使うなら、最初は普通に、「アモーレ・ミオ」を更に小さな声で発音して、薔薇の花の1本も彼女に渡すと格好良いかも知れない。


そしてこの時彼女に手渡す薔薇の花を買う事を、私なら「消費」とは言われたくないと思う。