2019/03/05 06:31

極端に古い言語や口語体はそれを学術的に研究したり、或いは文化的価値観から研究保存しようと言う試みが為されるが、例えば日本古来の「和歌」や「短歌」、中国の「漢詩」などは時代を経ても残っていくが、一般庶民が日常使っている言語は、それが生活に用いられていただけに、そこに価値を見出す事が出来ず、僅かな生活環境の変化で簡単に失われ、しかもそれが失われた事すら誰も知らず失われていく。

「おじにん」は昭和40年代前半に消滅した言語である。
元々日本海側と日本アルプスの麓などに点在する形で分布したした言葉だが、1930年くらいには既に衰退が始まり、1970年にはもう地方の村でもこの言葉を使う者は1人か2人と言う状況で、おそらく1975年前後に完全に消滅したものと思われる。

その意味は「憤り」や「不満」「理不尽」、「怒り」などであり、現代用語で言うなら「この人でなし」や「お前と言う奴は・・・」と言う解釈になろうか・・・。
主に男性言語で、女性が使う機会は少なかったが、その背景は単に確率の問題だったと考えられる。

日本に男女平等の精神が確立したのは1980年くらいからである。
名目上の男女平等はそれまでも謳われてきたが、現実にはこの1980年の結婚適齢期女性人口の相対的減少傾向から女性の地位は向上し、そして民衆は誕生する子供に男の子より女の子を望むようになって行き、現在の女性至上社会に移行して行った。

つまりそれまでの男尊女卑社会では、そもそも女性が家族中や公の場で不満を訴えることが既に難しかった事から、「おじにん」と言う言語は「男性用語」としての性質を持っていたのであり、こうした男性用語だったが故に女性の地位の向上と、男性の性的優位性の喪失により消滅の憂き目を見たと言える。

また「おじにん」はどちらかと言えば負け犬の遠吠えに近い意味が有り、この言葉を使っている当人は、その場では劣性に有る場合の意味を持っている。
この事から元々は「ばかやろう」と同じ程強い意味を持っていたにも拘らず、男性言語の中でも劣性の言語となって行った経緯が有り、より貧しい者、力の無い者、若さに対する老いの言葉となって行ったのである。

更にこうした全人口の半分を占める女性が使う機会の少なかった言語は、当然「家制度」中で下にある子供も中々使う機会が少なく、尚且つどちらかと言えば劣性状況の言語でもある為、働き盛りの男性も使う機会が少ない。
結果として老人男性言語としての意味合いが強くなって行ったのであり、この背景を考えるなら、「おじにん」と言う言葉が長く続く方が難しい状態だったのではないかと思われる。

「おじにん」の本来の意味は差別用語である。
相手の事を特別な場合「えな」と発音する地域が過去に存在し、「な」は古くから相手を指す言葉で、現在でも玄界灘や能登半島の一部地域で「なだ」と言う発音で残っているが、こうした「な」に「え」が付くと、それは相手を罵倒した意味を持ち、「え」は基本的には「えた」である。

本来「え」は「蝦」と解されても良いように思うかも知れないが、「蝦」は権力者の言語であり、これと民衆が使う「え」は必ずしも同義では無かった。
「おじにん」の初期はこの「え」と同じで、「人非人」を語源としている可能性が高いが、「おじ」には「引く」と言う意味や「足りない」と言う消極的な意味が有る。

そこには家長が持ちえる全ての権限に対しての劣性が有るのであり、この劣性と階級差別用語が組み合わされている可能性が高い。
一般的に「叔父」や「伯父」に対する意味は現代でこそ統一されているが、その昔は「叔父」と「伯父」でも席順が違い、ましてや長く続いた武家社会の家制度上の「叔父」と一般大衆の「叔父」は概念の違いが存在していた。

この事から「おじにん」の「おじ」は必ずしも「叔父」と同義ではないが、それが組み込まれた部分を持っていて、「劣った者」と言う蔑みや「鬼」、「え」の発音が持つ「何かが足りない」と言う意味を持っていた。

大体「あ行」の発音は一つ及ばないか、一つ余計になる事の意味を持つ発音であり、「あ」は「準」、「い」は「止め」「う」は「弱い準」「え」は僅かながら致命的な不足、「お」は「あ」の逆の意味での準である。

それゆえ「おじにん」の本体は「お」を半透明に含んだ「じにん」だが、これは一部の古い文献では「土蜘蛛」を意味する場合が有る事から、弥生後期には成立していた差別用語とも考えられるが、「おじにん」の歴史はそれほど古いものとは思われない。

おそらくは古くても戦国時代、場合によっては江戸中期に成立した言葉のように思われる。
このように初期から使用範囲が劣性にある言葉の寿命は短い場合が多いからである。

私がこの「おじにん」と言う言葉を最後に聞いたのは1973年だったが、その言葉を使っていた老人は、何度追い払っても自分の顔に留まろうとするハエに対してこの言葉を使っていた。
 
老いた男性とハエ、そしてこの「おじにん」と言う言葉の持つ、どこか理不尽なものに対して抵抗が叶わないようなニュアンスが何故か今夜は鮮烈に蘇ってくる・・・。