2019/03/14 05:59

五百子の父「了寛」は二条家出身の尊王論者で、兄「円心」とともにこうした父から影響を受けた五百子もまた、尊王論者として唐津では認識されていたが、彼女は父の手紙を長州藩の家老に届けるために長州に赴き、そして関所でもめていたのであり、「了寛」が娘に託した手紙には唐津の尊王攘夷派から長州藩への意思表示がしたためられていたのである。
 
いわゆるこの手紙は密書だったのだが、ここまで派手に届けられると密書としての意味があったのかどうか・・・。
それはともかく、14歳の時すでに両親の反対を押し切って単身京の都に上った五百子の事、確かに間違いなく家老に手紙が届けられたことを鑑みるなら、父が五百子に大役を頼んだことは正解だったに違いなく、また五百子も喜び勇んでこの大役を買って出た有り様に、その後の彼女の生き方を象徴すべきところが垣間見えるような気がする。
 
関所の役人達を一喝し、上の者を出せと気丈に振舞った五百子、しかし彼女はこの後結婚し本当に平凡な主婦となるが、夫が亡くなったことから再婚する。
そしてこの2度目の結婚では本当に幸せな家庭を築くのだが、五百子はある日突然この再婚相手に離縁を申し出る。
この時の離縁の理由がいかにも五百子らしいところだが、「国事に奔走するためには足手まといになる」から再婚相手に別れようと言うのである。
 
つまり私は国家や「公」の為に働きたいので別れませんか、と夫に言ったのだが、この再婚相手は相当五百子のことが好きだったのか、はたまた五百子の情念が再婚相手に通じたのかは分からないが、五百子の夫はこうした妻の言葉を受け入れ、ここに離婚は成立する。
後世こうした有り様にウーマンリブや、女性の権利の主張と言うものを重ねる者があるが、そうした判断は大変浅いものと言わざるを得ない。
 
離婚後、五百子は娘に店の手伝いをさせ、自分は長州での大太刀まわりよろしく、今度は明治政府の役人相手に脅す賺す(すかす)を始めるのであり、唐津港開港、鉄道敷設などは彼女の尽力によるところが大きかった。
またこのようにしてある程度の年齢になった五百子はさらに老獪さを増し、まことにかけ引きが上手かったと言われていて、こうしたことから皇族の「近衛篤麿」と知己を得た彼女は、「近衛篤麿」の協力を得て日本初の女性団体「愛国婦人会」を創設するに至るのである。
 
「奥村五百子」、彼女を考えるとき私などが思うことは、この女性は当代の女性の感覚ではなく、では未来なのか過去なのかと言うことである。
ある種とんでもなく進んでいるし、また一方では徳川幕府より遥か以前の自由な部分も持っていて、どちらか甲乙つけがたいものがある。
 
現代社会で盛んに唱えられる男女同権、男女平等などと言う概念は本当に浅いものだ。
どこかの国の国会議員が「では女が立小便できるのか」と言ったらしいが、せいぜいこの感性が限度のところは男女ともに存在している。
 
男女と言う性差にまで一律な概念を持ち込み、それをして平等と思ってしまう、また立場上、女が男に勝ることをして女性の地位が向上したと考える事の愚かさ、そうしたものを鑑みるとき、私はこの「奥村五百子」の精神にこそ本当の意味の男女の公平性を感じるのであり、五百子の考え方には「女性として国家の為に何ができるか」、「女性として国家が戦っているとき、どう戦えば良いのか」と言った、「女性として」と言う基本が有ることの偉大さがある。
 
現代国際社会の持つ男女同権の考え方は、いずれ必ず修正を余儀なくされるだろう。
人間は確かに平等であるべきだし、また男女がいなければ子孫も残せない。
しかし男と女は一緒なことができない。
 
子供を産むのは女性でしか有り得ない現実は、そもそも男女が同じではないことを事実として示しているのであり、協力して同じ権利を持つことはできても、同じではない。
このことをしっかり自覚したところに、では男としてできること、女としてできることと言う、本当に互いの性差を認め合った平等がある・・・と私は思うのだが如何なものだろうか。
 
いきなり妻から国家や「公」の為に奔走したいので離婚して欲しいと言われたら、どうしようか・・・。
多分私は感激して離婚に応じるような気がする。