「地球環境と言う幻想」2 | 古典漆芸技術 夏未夕漆綾

2019/03/18 05:58

これは勿論生物学的な仕組みとしてもそうなのだが、エネルギー変換の点に措いても整合性を持っている。
豊かな暮らしはより多くのエネルギー変換、エネルギー劣化をもたらし、本来は2人で変換すべきエネルギーが1人で変換される、場合によっては1人で本来の10倍のエネルギーが変換されるからであり、この意味では変換されるべきエネルギーの総量に限界点が有る限り、どこかでは新しい炭素ユニットの誕生が阻害されることは正しい。
 
そして人類はどうやら漠然とだが、こうした自然の摂理に対して危機感を持つようになったが、そこで出てくるものは「地球環境」と言う言葉である。
しかし近年叫ばれる「エコ」と言う言葉は「地球」を概念しているようで、実は人類の事しか考えられておらず、しかもその観点は大変狭義なものでしかない。
 
電気自動車やハイブリッド車はエコな感じがするが、しかしこれを新たに生産するためのコストは、やはりどこかでエネルギーなのであり、CO2なのである。
また電気はエコかと言えば、これも火力発電では大量のエネルギーが変換され、原子力発電に至っては、これを制御するために膨大なエネルギーが変換されている。
 
では風力発電はと言えば、これも同じように建設のためにエネルギーが変換され、そしてその設置場所のエネルギーを変換させ、さらには維持に対しても多くのエネルギー変換が為され、結果として「熱力学第一法則」から言えば、それは人間の目にはエコに見えながら、実質は何も変わっていないのである。
 
同じことはソーラー発電でも同じことが言え、ソーラーシステムは突然空間から発生するのではなく、どこかのメーカーが作っているのであり、その製作時に出るCO2の総量と、他の例えばお金を出して買った電気のために変換されたCO2の総量は、それほど大きな変化がなく、また料金的にもソーラーシステムの耐用年数が20年なら、それを維持するコストと電気料金を払い続けるコストは大差がない。
 
更にこれはエコキュートも同様で、初期に支払う金額と、耐用年数を考えるなら、決してお徳でもなければ環境に優しいわけでも何でもないのであり、もっと小さな事で言えば、電気の消費を抑えてキャンドルナイトで過ごす運動も、その蝋燭はやはりどこかで作られたものであって、そこではCO2は排出されているし、蝋燭を買いに行くために自動車を使った場合は、当然逆効果となる。
 
残念なことだが、現在世界で騒がれている「地球環境に優しい」や「エコ」の概念はこの程度でしかない。
そこにあるものは、自分の目の届く範囲ではゴミがなくなったと同じレベルなのであり、結局は資本主義の拡大に引きずられた幻想でしかなく、そこには地球のことなどは全く考えられず、個人がその気分に浸っているだけの現象が起こってきている。
 
自分の部屋からゴミを出してしまえば、そのゴミは消えてしまうのではない。
それはどこかへ持って行かれて、そこに積み上げられるのであり、CO2も同じことだ。
そしてそのゴミは元は何かと言えば、食料だったり家電製品と言う人類が変換し易いエネルギーだったものだ。
 
しかし人間が消費してエネルギー変換させゴミと言う、人間が次にエネルギーに変換しにくいエネルギーに変換させてしまい、結果として人間はこうした人間が変換しにくいエネルギーの増大によって、追い込まれる事になるが、それでも地球全体のエネルギーの総量は何も変わらず、地球は人類など生存しようが滅びようが全く関係がない。
 
人類はこのことをもう少し謙虚に考えて、言葉や行動を慎む必要があるかも知れない。
我々は存在しているのではなく、存在が許されているに過ぎない・・・。