2019/03/25 06:30

「ご報告申し上げます」
「んっ、何だ」
「昨日、岩倉卿のもとを女らしき者が訪ね来たとのことです」
「ふん、女とな、して女は若い女か」
「いやそれが、どうも見た者によりますと、かなりの年寄りとのことで、どこぞの田舎の隠居らしき風情とか・・・」
「それでは婆か」
 
「そのようで・・・」
「ほっほっほっ・・、あの岩倉卿もだいぶん血の気が引いたか、若い女でも所望するかと思えば婆とはな・・」
「如何しましょうか」
「たいしたことも無かろう、捨て置け」
 
明治維新と言うステージで、最初から最後まで何とか命を長らえ、そして強引に王政復古まで持ち込んだ者はたった2名、大久保利通と岩倉具視(いわくら・ともみ)しかいない。
彼等は到底余人の計り知れない「政治観」を持っていて、その政治観、価値観ゆえに他人から理解されず、また手段を選ばぬ悪どい有り様に、後世彼等を評して「維新の奸物」と呼ぶのも無理からぬところである。
 
岩倉具視(1825年ー1883年)が歴史の舞台に踊り出てきたのは、安政5年(1858年)の「公卿列参」にその始まりがある。
幕府が朝廷に「修好通商条約」の締結を求めてきたことに反対し、岩倉たちは御所でデモ活動を起こしたのであり、この態度は完全に「反幕府派」の有り様である。
しかし文久元年(1861年)、皇女和宮(かずのみや)降嫁、つまり皇女の和宮が徳川家に嫁ぐことに関しては、この実現に奔走している。
 
この事はいわゆる手の平を返したような「親幕府派」の有り様であり、当初から和宮が徳川へ嫁ぐことは人質でしかないと反対する尊王攘夷派から、この一件以降、岩倉は許しがたい「奸物」のレッテルを貼られるのである。
そして尊王攘夷派が勢力を拡大してきた文久2年以降、この件が元で岩倉具視は排斥され、ついには京都に住んではならないと言う命令が発せられ、各地を流転した挙句、洛北の岩倉村で隠遁生活を余儀なくされる。
 
普通の人間ならここまでかも知れない。
だが岩倉具視の情念はここで一人の女を呼び寄せ、そしてやがてこの女のおかげで岩倉は薩摩藩との関係を深め、明治維新の表舞台に再び躍り出ることになる。
歴史の影に女あり、政治の影に女あり・・・。
今夜はこの女がいなければ「明治の奸物」の片方が、その奸物になれなかったであろう程に、岩倉にとっては重要な役割を果たした、明治の敏腕女スパイ「松尾多勢子」(まつお・たせこ)(1811年ー1894年)の話をしてみようか・・・。
 
草深きその山里にも明治の足音がひたひたと押し寄せる。
信濃伊那谷で庄屋を務め、造り酒屋、製糸業を営む松尾家に多勢子が嫁いだのは19歳のことだったが、彼女はそこで当時流行していた尊王を説く、平田国学を信奉する夫との間に六男四女をもうけ、庄屋の妻として、また家業を取り仕切り、10人の子供の母親として奮闘していたが、その傍ら平田国学にも通じ、さらには「淳斎」の雅号を持つ夫と共に、娘時代から親しんできた和歌を通じても国学により深い関心を持ち始める。
 
多勢子の生活は大変だったことだろう。
10人もの子供を育て、庄屋の妻を務め、製糸業の経営にも携わり、酒屋の女将もやっていたのだから、今で言うところのキャリアウーマンどころではない急がしさだったに違いないが、そうした中でも多勢子は学問と生活を両立させているところが凄い。
 
そして多勢子のもっと凄いところは、そうして30年以上も蓄えた学問や知識を、やがて時が来たら実践しようとするところにある。
文久2年(1862年)夏、52歳の多勢子は夫の許しを得て、「隠居」の肩書きで単身京都へ上洛を果たすが、この頃は平田国学の門下生が次々京都へ上っている時期でもあり、多勢子の胸のうちにも、いても立ってもいられないこの日本に対する思いがあったのだろう。
 
上京した多勢子は「田舎者の歌詠み」と言う触れ込みを自分で作り、やがて公卿達の家を出入りするようになるが、その一方で藤本鉄石、久坂玄瑞などの志士たちとも親交を深め、その田舎風の様相、独特ななまりのある言葉遣いは、京都のどこに有っても一向に目立たたず、そうした経緯から次第に多勢子は尊王の志士たちや、公卿達の間の通信係としての役割を果たして行くようになる。
 
また庄屋の妻を務め、会社経営にも携わり、子供の10人も育てている才女である。
人生の酸い甘いも知り尽くした、男女の何かも良く分かっている女である。
始めは通信係だった多勢子は、やがてこうした尊王派の中でスパイとしても認められるようになり、宮中ですら出入りするようになっていくが、多勢子もこうして自分ができることと言うものを自覚したのか、スパイ活動を嫌がる事も無く、積極的に女スパイとして活躍していくのである。
 
人間は天から与えられたことに対して、そこに正直に生きることが難しい。
好きなこと、やりたい事と、天が与えた才能や立場は決して一致しない。
それゆえ天が与えてくれた自分の役割を自覚することは至難の技とも言えるが、謙虚であって、自分自身が何者かを知る者、つまりは現実に忠実な者に取っては、そこはまるで低いところに水が流れ込むかの如く、自然に道が付いているものでもある。
多勢子にはこの点からも、ただ者ではないところが感じられる。
                                                     「敏腕女スパイ」・2に続く