2019/04/08 06:46

鳥や魚などの生物が群れとしての行動を取る時、ここには群れを先導する自律的な一部のグループと、近くを移動する同じ個体生物の動きに追随する、他律的な行動を示すグループの2種が形成されるが、ここで注目すべきことは、この2種の行動を示す個体生物の行動は、必ずしも固定されたものとはなっていないと言う点にある。
 
つまり群れの先導役となるグループと、他律的にそれに追随するグループは、あらかじめ役割分担などがされておらず、また任意と言う訳でも無い。
ここで先導的グループになるか、他律的追随グループになるかの分岐点は、強いて言うなら「状況」や「環境」と言う事になる。
言うならばその時自律的行動を取らねばならない位置にいる者が、先導役となるのであり、そのとき自律的判断が求められていない位置にいる者は、自動的に他律的な行動となっていくのである。
 
従ってこうした群れ行動をする生物に措ける「個」は、先導的動作を取る機能と、近くの同じ個体の動きを見て他律的に動作する機能が、同時に両方プログラムされていると言え、「社会」と「個」との関係を考えるなら、それが同時になっていると言う点での美しさがある。
 
だが一方でこうした機能は高等な生物になるに従って、自律的グループと他律的グループの固定化傾向が出てくる。
例えばサルではボスザルの存在によって自律的グループは固定化され、その他のサルたちは、勿論完全に自律的な面を失う訳では無いが、それでも自立的な行動はその濃度が薄くなり、自律的行動は主にその社会に対してではなく、「個」の問題に対してのみ機能する一種の後退的側面が出てくる。
 
そしてこれが人類ともなれば、為政者とその執行者の自律的グループと、それに対して他律的な民衆のグループとに完全に分離された社会になって行く。
即ち「支配」と「支配される側」が現れてくるのであり、この点で鳥や魚の群れの在り様を考えるなら、人類は「個」と「社会」が同時となっている鳥や魚の社会より、どこかで劣化した雰囲気、また「個」がその機能や責任を放棄しているかの如く、「怠惰」がもたらす後退現象のようなものが見えてくるのである。
 
しかし人類は「社会」と「個」を考えるなら、こうした劣化した雰囲気を持ちながら、その体の機能はと言えば、ここでは鳥や魚と同じような機能を持っている。
「自律分散システム」と言う機能がそれだが、人間の生体を情報システムとして鑑みるなら、そこには感覚神経系と運動神経系の2つに大別される流れがある。
 
人体に措ける情報の流れは、目や耳などの末端感覚受容機構から大脳や小脳などの中枢へ送られる感覚情報の流れと、中枢から手や足などの末端運動器官へ送られる運動指令情報の流れがあるが、ではこうした機能が全て脳などの中枢機能で処理されているかと言えば、それは違う。
人体を流れる情報は、その大半が途中各所で局所的な処理や判断を受け、より抽象的な度数を強められたり、またその場で下位の運動系に対して運動制御指令が出されたりしている。
 
即ち「個」と「社会」が同時の、鳥の群れなどと同じ制御方式を持っているのである。
一つの情報に対して幾つもの機構がそれを処理しに向かい、そしてもっとも適切な処理が為される。
実に人体と言う複雑かつ精密な生体機能の情報処理は、中央集権的な制御方式ではなく、それぞれの機能が自律し、尚かつ分散して制御に当たっているからこそ維持されているのである。
 
人間の神経回路の動作速度は、電子制御回路の動作に比べると10の4乗以上も遅い。
だが人体が臨機応変に複雑な動作が可能なのは、こうした自律分散システムによって、信じられないほどの並列情報処理が行われているからに他ならない。
 
またこのように見ていくと、「自律分散システム」は実に森羅万象あらゆる事象に対する基本的なシステムの側面を持っているようにも考えられるが、その生体がより高度になるに付け、この基本から外れていく、つまりは「社会」と「個」が分離する社会傾向が現れてくるようである。
 
だがこうした「個」と「社会」が分離傾向を持つ社会構成は、何度繰り返されても必ず崩壊する運命にあり、それはなぜかと言うと、常にこうした森羅万象の基本となるべき方向に相反しているからのようにも思える。
 
人体の情報処理方式や鳥の群れなどでは、「個」がいつでも「全体社会」となり得る状態があり、「個」がその資質を有しているが、人間社会の「個」は「社会」と必ずしも一致せず、場合によっては相反していることすらある。
 
「個」と言う存在の誰もが自律と他律を包括しているのではなく、明確に自律する「個」と他律する「個」が区分され、しかもそれが中枢機能で全て情報処理が為された場合、恐らくこれが人間の生体機能の場合なら維持が困難な事になるだろうし、鳥の群れだったら、どこかで全体が死滅する事態が避けられないに違いない。
 
にも拘らず、人間の社会はいつの時代も中央集権的な政治形態を目指し、またコンピュータソフトの世界でも、同じように自然の摂理に反してシステムの中央集権化が進められ、日本などではエネルギーに付いても「オール電化」と言う、エネルギーの一元化が進められているが、これらは自律分散システムと言う自然の摂理を真っ向から否定する在り様と言え、必ずいつかは予期できない事態に対処不能となる日が訪れるに違いない。
 
更に現在の国際情勢を鑑みるなら、明確にこれまでの政治の在り様、いわゆる自律と他律が区分された政治状況が、また崩壊しかかってきていると言えるのだが、こうした機会に今度こそ人類は自律分散システムを少しでも取り入れた政治や思想を構築できるだろうか。
もしそれが叶わない場合は、いつか新しい秩序ができても、それは既に成立した瞬間から崩壊へと向かう、今まで幾度となく繰り返された人類の歴史と、全く違わぬ道を辿る事になるかも知れない。