2019/04/14 06:51

人間の世に完全なる「善」は存在できず、同じように完全な「悪」も存在できない。
これらを成し遂げたかに見えた者たちは、その自身の内でこれらの命題と壮絶な闘いを続け、そして何とかその命の尽きるまではこれを守り通したと言うことであり、既に心の内には相反するものが存在し続けるからこそ、守り続ける事ができたと言える。
 
そして人の世の「善」なるものは常に不完全なことから、この「善」はいつも「悪」と表裏を為し、その「悪」の最も深き所は限りなく善に近いところにある。
 
1995年1月17日未明に発生した兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)、この地震が発生した直後から他府県ナンバーの車が相当数震災被災地へ向けて移動していた。
同じように2007年3月25日に発生した能登半島地震、この地震災害でも正体不明のワンボックスカーが大挙して同地方へ移動していたが、やがて本格的にボランティア活動が始まるに付け、被災し倒壊した家屋からその家の財物、書画骨董などの収奪が始まってくるのである。
 
避難施設で不安な日々を過ごす被災者を尻目に、さも善良そうな顔をして瓦礫の撤去に当たる土建業者、しかしこうした撤去作業の混乱時に、瓦礫の下になっているその家の財物は、大半が許可無く持ち去られる現象が発生してくる。
こうした傾向を鑑みるに、地震はチャンスと考える者の意外な歴史の深さであり、関東大震災、安政江戸大地震でも同じようなことを書き残している者がいる事から、震災時に措ける収奪行為は、そこに知る人ぞ知る伝統のようなものが存在しているかの如くである。
 
またこれは震災に限った事ではないが、極度に混乱した状態は、かなりの期間その地域の治安を崩壊させ、そこで起こってくるものは暴行、強姦などの現象だが、これらの違法行為は大変陰湿な形で発生してくる。
一時的に身を寄せた遠縁の家で、また彷徨っている被災少女を優しく保護したように見せかけ、その影で為される強姦、これらは関東大震災でも多く記録されているが、兵庫県南部地震でも発生していた事実がある。
 
しかし一般的にはこうした事実は知らされることが無い。
その背景にはこうした事実が判明していくとボランティア活動に制限が加わるからであり、また日本の社会はこうした非常時には「多少の事」には目を瞑って大義を優先する傾向がある。
すなわち地域としての「顔」があり、これを簡単に言えば「風評被害」と称する辺りから極めて違法性を帯びた行為が容認されていく社会が出来上がり、その広がってしまった許容性は被災地域にその後も蔓延し、結果として被災地域の道徳的観念は大きく崩壊していくのである。
 
被災した地域ではより多くのボランティアや物資が必要になり、そうした実情は被災地域住民にどこかで大きな引け目を感じさせ、また発言にも気を付け、より多くの支援を請わねばならない自治体としては、都合の悪い事実は隠蔽してしまわなければならなくなる。
更にこうした動きは報道に措いて、より顕著な傾向を現してくる。
現代の報道は視聴率や聴取率偏重から、大衆の求めるものを報道して行こうとする、いわゆる大衆迎合報道でしかないが、こうした傾向がもたらすものは災害時に措けるその精神性のまずさである。
 
日本はこの震災の以前から政治的にも経済的にも崩壊しかかっていて、その中で民衆は大きな閉塞感を感じていた。
そして東北に大きな地震が発生し、巨大災害となってしまったが、ここに見るものは秩序の崩壊であり、そして非被災者達の見るもの、いや見たいものは人間的な美しさである。
「人は最後は優しい」「人間って良いものだ」「頑張ろう」などの美しい言葉が飛び出すが、これは全て非被災者の現実に対する不満の裏返しでしかない。
 
よってここでは汚い事実や非人間的な行為に対して拒否感が発生していて、こうしたことから報道もその地域が頑張って行こうと努力する映像は取り上げるが、その裏で広がる闇は震災の復興と言う大義の前に、全てがさらに深い闇に葬り去られることになり、それは表面的な美しさを持つ者達によってもどこかへ押し込められてしまう。
 
                          「光が闇を創る」・2に続く