2019/04/17 06:42

「仙人、いや先生、今日は近くまで来たものですから立ち寄ったんですが、如何なものでしょうか例の原稿の方は・・・・」
「おお、二俣(ふたまた)か、久しいな、達者だったか」
「へっ、おかげさまで何とかやさせてもらってます」
「二俣、お前もあの陰湿な編集長にだんだん似てきたな、こんな山の中へ近くまで来る用事なんぞあるのか」
「いえ、いえ、本当なんですよ、たまには自然にいそしもうと思いまして、気が付いたら先生の所に向かっていたと言う訳でして、深い意味はないんですよ」
 
「そうか、締め切りまでにはまだ時間が有るからな、お前らにとやかく言われる筋合いではないぞ」
「それはもう分っておりますとも、先生にそんな失礼なことなどとても言えませんから」
「でも締め切り、守って頂いたことは一度も有りませんけどね・・・」
「二俣、何か言ったか」
「いえ、何も」
 
「まあいい、せっかく来たんだから上がって茶でも飲んで行け」
「へっ、有難うございます、そう思いまして少し甘いものなど買ってきました」
「お前、気が利くのか、性格が悪いのか本当に分らん男じゃのー」
こうして「下限編集社」へ入社して3年目の「二俣翔」(ふたまた・かける)は田分仙人こと、作家の「笛当院修平」(てきとういん・しゅうへい)の庵に入って行ったが、出された茶を一口すすった二俣は、かねてから何度聞いても絶対教えてくれない携帯の電話番号を聞こうと思い、おずおずと笛当院に話しかける。
 
「先生、以前から少し気になっているのですが、どうでしょうか携帯の番号を教えて頂けないでしょうか、何か有ると困りますし・・・」
「二俣、お前は耳が聞こえんのか、わしは何度も言っておるだろう、携帯は持っておらん」
「先生、幾らなんでもこの時代に携帯も持っていないなんて、そんな事が信じられますか」
「持っておらんものは持っておらんのだ」
 
「失礼ながら、先生の書くものはいずれも最先端社会に対する警鐘が多く、先生が携帯を持っていないなんて、そんな言い訳が信じられると思いますか、編集長には言いません、私にだけは教えてください」
「くどいぞ二俣、携帯の情報など生きる上では所詮どうでも良い情報ばかりだ、本来は必要の無いものを、あたかも必要だと思わせる資本主義の暴走が分らんのか」
 
「緊急時にはどうするんですか」
「世の中にそんな一秒を争うことが生きていて何度ある、親が死んだ時くらいのものだ、一生の間に一度のためにそんな馬鹿なものを持つ気はせん」
自らも茶をすすり、二俣の持って来た虎屋の羊羹を口にはこんだ「笛当院」は、その羊羹を飛ばしそうな勢いでしつこい二俣に言い返す。
がしかし、ここで庵の片隅にある固定電話が鳴り始めたことから、「笛当院」はおもむろに受話器を取ったかと思うと、こう言う。
「どなたか分らんが、今は来客中です、後程おかけ直しください」
 
「先生、ちょっと待って、待ってください、大事な電話ではないのですか」
大慌てで電話を切ろうとする笛当院を制止しようとする二俣、しかし何の躊躇もなく受話器を置いた笛当院は、二俣の方に向き直ると信じられないことを口にするのだった。
「二俣、お前のような者でもわざわざこの場に訪ねてくれた者は、少なくとも電話で用事を済ませようと考えた者より、ことの重大性が有ると思わねばならん」
「従ってわしは来客中は来客を優先し、電話はその次だと皆に申し渡してある」
 
「なるほど、そうでしたか」
ガックリ来たように膝を落とした二俣、しかしそこへ何と今度は二俣の携帯が鳴り出す。
「ピロロロロ・・・、ピロロロロ・・・」
慌ててスーツの内ポケットから携帯を取り出した二股、さっさと笛当院の前を横切ると庭へ出て携帯のメールを確認し、いそいそと今度は自分もメールを打ち始める。
静かな庭には「ピッ、ポッ、ピッ、ピッ」と言う音が鳥の鳴き声に混じり、無表情に二俣を待つ笛当院・・・。
 
やがてメールを打ち終えた二俣がまた庵に入って来ると、すっかり無口になった笛当院がいて、既に完全に怒っていることは間違いない事を察した二俣、何とかこの場の重い空気を払拭しようと、先ほど妻から送られてきた昨年生まれた自分の子供の画像を携帯画面に呼び込むと、それを持って笛当院ににじり寄る・・・。
「先生、どうです去年生まれた娘なんですが、可愛いでしょう、毎日妻がこうやって様子を送ってくれるんですよ」
 
もはや爆発寸前の笛当院、しかしチラッと見るとそこには可愛い子供が写っており、一瞬表情が和らぐ。
だがそうした自身の在り様にハッと気づいた笛当院は「ゴホン」と一回咳払いをすると、そのあだ名の所以である「たわけ!」の一喝と共に大激怒となった。
 
                                                 「田分仙人と編集者」・2に続く